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2006年1月25日 (水)

「わかりやすさ」その実例

 先週、センター試験前にセンターの過去問を持って質問に来た浪人君がいました。「この問題解けません」と言って、みせてくれたのは、97年度本試(『松浦宮物語』)の文法問題。

問2 「えゆるされたまはねど」の「れ」と「ね」の文法的説明として正しいものを次のうちから選べ。

①「れ」は尊敬の助動詞、「ね」は打消の助動詞  

②「れ」は受身の助動詞、「ね」は打消の助動詞

③「れ」は完了の助動詞、「ね」は打消の助動詞

④「れ」は可能の助動詞、「ね」は完了の助動詞

⑤「れ」は自発の助動詞、「ね」は完了の助動詞

⑥「れ」は下二段活用の動詞語尾、「ね」は「完了」の助動詞 

 これ、正解は②なんだけど、彼は納得できないという顔で、「だって助動詞『る』に<打消>がついたら<可能>のはずでしょ。でも、そういう組み合わせがないんです」って言うんですよ。どうやら、「わかりやすい公式」をどこかで教わってしまったらしい。

 つまり、こういうことです。「助動詞「る・らる」は、<可能>の意味になる場合、<打消>や<反語>表現を伴う」という原則が鎌倉時代までありました。つまり、古代の人達は、「る・らる」を<可能>の意味で使う場合、”~できない”という文脈の中でしか使わなかったんですね。んで、この原則は、古語辞典にも載ってるし、我々もよく授業中に教えています。

 ところが、これを「わかりやすい公式」に仕立てて、「『る・らる』の意味を判別する公式」を作ってしまう人達がいるんですナ。曰く、「『る・らる』に<打消>が付いていたら<可能>の意味」。これは、上記の原則とちょっと合わないでしょ。つまり簡単に言うと、原則は、「<可能>なら<打消>を伴う」。一方、「わかりやすい公式」の方は、「<打消>を伴っていたら<可能>」。ホラ、ちょっと違う。この二つの命題、等値にならないでしょ。

 これがもし、等値なら、「女子高生なら高校生」を「高校生なら女子高生」と言い換えられることになる。男子高校生、どこ行ったんだ~。~o~

 しかも、この原則は、鎌倉中期までです。鎌倉末期になると、例外が『徒然草』などに見られるようになります。だから、無限定にこの原則を「公式化」したりしてはいけないのです。ところが、やたらに「わかりやすい公式」を作りたがる有名講師の方達がいて・・・。

 今、一番売れてる参考書を書いている某有名講師A(モチロン他予備校)の本だと、

「<可能>の場合、95%の確率で『る・らる』の直後に<打消>があります。だから、<打消>があったら、<可能>と決めましょう」

 なんて書いてある。そもそも、「95%」ってのが何処から出てきた数字なのやら、全く不明(予備校屋ごときが、そんなものの用例を数えているわけがない)だし、「原則」を全く無自覚に「公式」にすり替えてます。この人、数学出来なかったでしょうね~。「必要十分条件」とか「等値」とかって概念が、全く念頭に浮かばないらしひ・・・。

 この手の「わかりやすい公式」は、この某有名講師Aだけではなく、実は、世の中の売れセンの参考書にはかなり出てきます。この某有名講師Aは中でも、その手の「公式」を一番「わかりやすく」説明しちゃう人なので、これからも、「わかりやすい公式」の紹介の時に、名前を挙げることがあると思います。 

 ワタシの所に質問に来た浪人君も、どこかで「わかりやすい公式」を学んでしまったのでしょう。しっかし、たかがセンター試験の文法問題が解けない公式なんて、何の意味があるっていうんだろー。困ったもんだー。こういう有名講師の方が、どんな方法で金儲けしようと、ワタシはあんまり興味ないのですが、ワタシの教え子達を毒さないでもらいたいもんです。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                             

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コメント

 はじめまして。

 先ほど、このブログを発見しまして、興味深くてずっと拝読していました。
 ほぼ3年近く前の記事にコメントするのも恐縮なのですが、「る・らる」については、つい最近僕が教えている生徒が「打消が来たら可能なんじゃないの?」と詰め寄ってきた経験がありましたので、この記事にコメントいたしました。

 いろいろと書いていらっしゃるように、人気講師の書いているものは、かなりいかがわしいものがある、でも、それが売れているという哀しい現実がありますね(僕も小西さんの『古文研究法』は名著だと想います)。
 数値やレトリックで、子どもたちを騙しているやり方は、やはり許し難いものがあると感じます(し、そういう講師に執筆させて本を出している出版社も、同様です。)。

 予備校や塾というのはそういう所なのかとも想ったりもしましたが、無名講師さんやその同僚の方の姿を拝見するに、そうしたことに違和感を抱いていらっしゃる人もいて安心しました。

 子どもたちはすぐにテクニック的なこと、出やすいところだけを楽に勉強していこうかと考えていますが、そんなに単純なものではありませんね。ことばを相手にするには、それ相応の覚悟がないとできません。
 じっくりと丁寧に、コツコツと真面目に勉強をする子が、やはり一番伸びると想います。

投稿: coda | 2008年12月25日 (木) 01時16分

 書き込みありがとうございます。

 「いかがわしい」参考書に関しては、この記事を書いた時点よりも、現在の方が嘆かわしい状況になっていると思っています。

 特に、『新修古典文法』(京都書房)を文法副教材として使用する高校の増加は、正直頭が痛いです。名前を聞くと驚くような有名進学校でも、あんな本を使っているというんですから。どうなっているんでしょう。

 codaさんは、拝察するに高校で教鞭をとっていらっしゃる方なのでしょうか。
codaさんのようにマトモなお考えの先生方に、是非頑張っていただきたいと思います。

投稿: Mumyo | 2008年12月25日 (木) 16時01分

 僕は大学院で古典文学を専攻している者ですが、非常勤で公立の高校で古典を教えています。
 学校に送られてくる見本教材をよく見ているのですが、その中に『新○古典文法』もありましたね。
 読んでみると、なんとも変なもので、しかも最後のところだったでしょうか、「これは私独自が考えたものです。許可無く・・・」という主旨のことが書いてあったと思いましたが、よくもまあこんなことが書けるなと想いました。


 先日大きな書店に行っても、参考書のコーナーには平積みされているのは、どうも怪しいものばかり。内容は薄いくせして、無駄に量だけがあるものです。イラスト入りや文字サイズが大きくなってる本は、商業戦略としては成功しているのかもしれませんが、学問・言葉への興味・知識ということに関しては死んでいると感じました。でも、それが人気あるんですよね。


 個人的に良いなと思っている本などは書棚の隅で寂しそうにしていました(最終の発行年から察するに、数年もそこに置いてあることになる!)。

 「解法」だの「公式」だの、およそ言葉を相手にしている人たちからすればそんなのは怪しいと思うんですけどね、高校生には魅力なのでしょう。

 そうした流れに対抗できませんが、僕はただ真摯に授業に取り組んで行きたいと思っています。

 僕もMumyoさんのような方に頑張っていただきたいと思っています。

投稿: coda | 2008年12月25日 (木) 20時26分

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