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2006年2月18日 (土)

日本語が乱れたって良いじゃん

 よく、「日本語の乱れ」ということをやたらに言い出すオヤジがいます。曰く「最近の日本語は乱れている」。でも、その「乱れ」がなかったら、現代語は生まれていないんですがね。「乱れ」がなかったら、我々は、いまだに「係り結び」なんかしてなきゃいけないわけで・・・。

 だから、「ラ抜き言葉」なんかだって、やたらに「乱れ」と言って切り捨てて良いのかどうか、疑問なわけです。上一段動詞、下一段動詞に<可能>の「られる」をつける時に、「ら」を抜くヤツですね。「見られる」を「見れる」というような。あれって、五段活用動詞に付属する可能動詞(「書く」「読む」に対する「書ける」「読める」)に対応するものとして生まれたのだろうから、簡単に「乱れ」と言って排除してしまうわけにいかないんですよね。可能動詞が生まれた江戸の後期あたりからの流れとして、必然的な変化と言っても良いわけです。

 つまり、助動詞「れる・られる」の持つ四つの職能<受身・尊敬・自発・可能>は、いかにも誤解を生みやすいものなので、<可能>が独立の形を持ちたがるのは、言語の機能を考えてもまっとうだと思うんですよね。「見られる」と言った時に、”他人に見ることをされる”のか、”エライ人がご覧になる”のか、”自然と見てしまう”のか、”見ることが出来る”のか”判断がつきにくいのは、不便ですもん。だから、五段動詞に対して可能動詞が生まれたのは必然なわけですし、可能動詞が生まれた以上、上一段、下一段動詞に対しても同様の意味を持つ「ラ抜き」の形が生まれるのは、また必然なんですな。

 その言葉の歴史的変遷や、その言葉の生まれた経緯を何も考えずに「乱れ」を議論するのは、本当はおかしなことなんだけど、何にも知らないしろーとのオヤジほど、「最近の若い者の言葉は乱れている」ってやりたがる。困ったもんです。「日本語の乱れ」なんて大きなことを言いたかったら、せめて『日本国語大辞典』くらい引いてからにしてくださいヨ。~o~;;

 しかし、答案に「ラ抜き」を書くのは、まだマズイんだよな~。まだ一般的には、誤用と考えられているから。だから、「見れる」なんて書いてある答案みつけると、「あと五十年くらい経ってからにしなさい」って指導したりするワタシなのでした。~o~

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