泣きたがる人々
某有名講師XやAの本などが売れているのを見ると、「今の世の中には騙されたがっている人達がいるんじゃなかろうか」と疑ってしまうのですが、今の世の中に泣きたがっている人がいるのは、どうやら間違いないようです。
「泣ける」という言葉の意味の変化に、それは表れているように思います。例えば、春日八郎だったと思いますが、「泣けた、泣けた。こらえ切れずに泣けたっけ」って歌った時の「泣ける」は、明らかに泣きたいのではなく、”泣きたくないけど、自然に泣いてしまった”という意味ですよね。実は、「泣ける」は、もともと自発表現なのです。どの国語辞典を見ても、そうなっているはず。ところが、最近の「この本は泣ける」「泣ける映画です」なんて言い方。どう考えても、コレは、”泣くことができる”という可能表現になっています。
どうしてこのようなことが起こるのかというと、「泣ける」という動詞、語源的には可能動詞で、もともと”泣くことができる”という意味だったのですが、それが自発表現に転用されたものなのです。それで、ずーっと、”自然と泣いてしまう”という意味の自発表現だったのに、どういうワケか、最近、「泣きたがる人々」が増えてきて、「泣く」ことが価値のあることと感じられるようになり、語源の可能動詞の意味に戻されて使われるようになったと、そういうことらしい。
確かに、「泣く」という行為はカタルシスになるから、「泣きたがる人々」がいても不思議ではないけれど、なんか釈然としませんねえ。日本人って、自然な感動がなくなってきているんじゃないでしょうか、と今日は、マジメに問題提起で〆てみるかっ。~o~
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