詐欺師Nの思い出~突破成功!
翌週、例のクラスの授業、ワタシは自分の教材ではなく、Nの担当教材を持って授業に臨みました。教室へ入るなり、切り出しました。「今日は、みんなに話さなければならないことがあります。そのため、テキストは進めません。大事な話なのでよく聞いていてください」それだけ言って、まず教壇の上の椅子に座りました。
通常、我々は授業の際、椅子に座ることをしません。座る暇がほとんど無いからです。しかし、この時ばかりは座りました。その方が生徒と目を合わせて落ち着いて話ができるからです。そして・・・。正直に言いましょう。実は足が震えて立っていられなかったのです。この説得に失敗したら、ワタシ自身、非常に拙い立場に立たされることになるでしょう。「失敗」は、生徒からの信用を大きく失うことになり、なおかつNからの残酷な反撃を招くことになると予想されます。そして、それ以上に重大なのは、この校舎の全生徒が入試の古文で失敗することです。多分、彼らは、失敗の自覚もなく失敗するのです。上手く立ち回ったつもりが、予想し得ない結果に裏切られるのです。あの、「をかし」でつまづきかけた子のように。つまり、この説得の成否に「我々」の運命が掛かっているのです。
ワタシは、なるべく穏やかな調子で語ったはずです。Nの授業のノートを見せてもらったこと。Nの「公式」が、実は某有名講師Xという有名な邪道の先生の方法であること。そんな方法では古文は読めないし、絶対にセンター試験で高得点は取れないこと。そして、続けました。「信じられないと思うので、実例を見せましょう。これは、N先生が担当している教材です。この教材、まだN先生は1ページもやってないはずだけど、第一課の一行目はこうなっています」。『伊勢物語』の第六段冒頭を黒板に書き写しました。「N先生は、『主語の公式』ってのを教えているはずだね。『ば・を・に・ど・ども』で100%主語が変わるってヤツ。それを使ってこの文章が読めるかどうかやってみましょう」
最初、上の空だった生徒達が、説明を進めるうち、次第に引き込まれていくのが判りました。「この『を』の前後の主語が両方とも『男』であることは理解出来たと思います。こんな文章が第一課の一行目にあっては、そりゃあ、テキストに入れないのも当然だよね」
ワタシの声は多分、震えていたはずです。「この『主語の公式』だけじゃありません。他にもこういうのがたくさんあります。他の『公式』については、この時間の後、聞きに来てくれれば全部説明します。それから、申し訳ないけど、君達は勉強をやり直さなければなりません。それについては全面的に協力するから、やる気があったら相談に来てください」
その時間は、それで終わってしまいました。ワタシは、「突破した」という高揚感に包まれて、落ち着きもなく講師控え室に帰りました。間もなく、果たしてあのクラスの生徒達がやって来てくれました。ワタシは、みんなを座らせて、Nの「公式」の一つ一つについて説明しました。生徒達はみんな納得してくれました。この子達、実はかなり賢い子なのです。ワタシは、生徒の一人に尋ねました。「こんな『公式』が役に立たないことぐらい、センター試験の過去問をちょっとやれば、すぐに判るはずだろう。何故、判らなかったんだ?」
生徒の答えは、驚くべきものでした。そこで明かされたNのやり方は、驚嘆すべき巧妙な騙しのテクニックだったのです。
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