夢が信じられるようになった頃
「夢」という言葉が現代のように、やたら現実的でポジティブな言葉になったのは、何時頃だったのでしょう。少なくとも、昨日、例に挙げた吉永さゆりの頃ではありません。もう少し後なんでしょうね。
その事について、日本史の先生と話をしたことがあります。彼が言うには、高度成長期が終わる頃ではないかと。つまり、高度成長期までの日本には、身の回りに実現不可能と思われる望みが満ちていたんですね。集団就職で上京してきた娘には、パン屋の店を持つことが有り得ないほど遠い目標だったし、一家五人が2Kの団地で暮らしているサラリーマン家庭には、ハワイ旅行は夢のまた夢だった。ところが、高度成長期の経済発展とともに、それらの「夢」は次々と現実になっていく。夢のTVや洗濯機は日常的な道具になり、マイカー購入もハワイ旅行も定期的に訪れてくる行事に成り下がった。何でも望めば実現する経済力を日本人は手に入れてしまった。
その結果、「夢」という言葉は、遠い憧れでなくなり実現可能な目標を表わすようになっていった、つまり、現実がインフレーションを起こして、相対的に「夢」の価値が目減りしていったのだと彼は言うんです。確かに、そりゃそうかもしれないけど、でも、現実のインフレーションに合わせて、「夢」もグレードアップしていけば良かったのにねえ。それほどの空想力が日本人にはなくなったってことなんじゃなかろうか。
何はともあれ、そんなワケで、昨日紹介した『建礼門院右京大夫集』みたいな文章は、現代の若者には読解困難になっているんですよね。
だから、ワタシは、大学合格ごときに「夢」という言葉を使う人は嫌いです。「夢をあきらめずに頑張ります」なんて学生がいると、心の中で、「そんな言葉遣いをしてると、君の『夢』は実現しないかもしれないよ」とつぶやいてしまうのでした。~o~
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