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2006年4月 5日 (水)

内向と内攻~YUIとRingo

 これまで書いた記事をカテゴライズしてみました。これで、このブログもカテゴリーによる検索が出来ます。わはははは、どぉーです!って別に普通のブログ並みになっただけか。~o~;;

 んで、今日のお題なのですが、スキーの話ではありません。ってスキーしない人には判りませんやね。今、スキーじゃ「内向」が技術的にはHotな話題なんです。でも、今日の話は「ターン前半に先行動作としてターンインサイドを向くこと」ではなく、「自らの心の中を見つめること」。YUIと椎名林檎を比較しようというJ-Pop的には非常にHotな試み、つか、どっかの音楽雑誌でやってるだろー的な、しろーとに何が判るってんだ的な、Rokin'on Japanでも読めよ的なっ、そんな大胆不敵な、大腿素敵な・・・まっ、いーや、話を進めましょう。~o~;;

 かなり以前、某メーリングリストでCocco(『ブーゲンビリア』の頃)と林檎嬢が似ているという話題が出ました。その時、ワタシは、両者を比較してこんな内容を投稿したことがあります。

 Coccoの詩には、時に「彼」との間の肉体的及び精神的な格闘が描かれ、攻撃性が他者に向いている、という特徴がある。ところが、林檎嬢の詩には、驚くほど、この二つの要素が欠落してる。林檎嬢のCD化された作品の中(『本能』の頃)で、「彼」との肉体的接触が描かれているのは「すべりだい」くらいで、精神的にも、林檎嬢は他者と格闘しない。「彼」とは無関係に、強固な「自己」が独立し完結していて、「こっち向いて」「見抜い」たり、「中まで入って」くることは求めるが、自分から出て行って「彼」と争うことはしない。「約束はいらない」「どうせ独りだ」と孤高を守る彼女の興味は、常に「内側」にあり、他者とのコミュニケーションには絶望しながら、それでも他者の理解を求めてやまないように見える。

 また、林檎嬢は他者への攻撃性を描かない。一見、狂暴な言葉をちりばめているかに見えるのだが、彼女の攻撃性は常に内側へ向っており、「グレッチでぶって」とは言うが、「引き裂いて壊したい」(「首。」by Cocco)とは言わない。せっかく抱いた「殺意」も「しまっ」て「警告」するのみ。「殺されてもいい」「あたしが息をとめても」と自分の死のみを好んで夢想する彼女は、マゾというより、他人を殺すくらいなら自分を壊す方を選ぶタイプなのだろう。彼女の歌はこんなあたりに「痛み」が感じられる。

 などと書いて、コレ、当時、林檎ファンからけっこう賛同を得たんですよ。今になって考えても、割と当たってるかな。「絶望」しながら「他者の理解を求める」モチーフは、『アイデンティティ』や『罪と罰』に発展的に継承されるし、「自分を壊す」表現は、『依存症』や『浴室』でも顕著に出てくるしね。

 んで、YUIなんですが、林檎嬢の前者の特徴、つまり他者との断絶に対して諦観を持ちながら理解されることに焦がれているというこの点には共通するものがあります。つか、林檎嬢よりもこの点が突出し、なおかつより内向的であるように思います。林檎嬢は、諦めながらも理解されることを他者に懇願したりしますが、YUIは常に内側を向いて、自分の中の「カギ」を探しているように思えます。しかし、林檎嬢の後者の特徴、つまり、自己への攻撃性は全く見られません。つまり、YUIは内向するが内攻はしないのです。だから、林檎嬢の世界に触れた時の独特の病的な「痛み」の感覚はありませんが、他者と断絶して内向する者の切実さは、より純粋に感じられるのではないかと思うのです。

 ところで、この二人の類似点をもう一つ。シングルのカップリング曲をアルバムに使わないってこと。これは、さすがに林檎嬢のマネでしょう。でも、カップリング曲に名曲があったりするのは、リスナーには嬉しい「マネ」ですよね。

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