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2006年5月29日 (月)

古文解釈の愉悦

 たかが予備校の生徒さんが「新説」を考え出してしまうというのは、信じられないと思う方もいらっしゃるかも知れませんが、実は大いにありえることです。

 まず、古典文学の側の事情。古典文学の注釈書というのは、『源氏』など一部の作品を除けば、実は結構手薄です。そこそこ有名な作品でも、あてになる注釈書は一、二種類しかないということは、それほど珍しくありません。古典文学全集は何通りか出版されていますが、研究者が少ないと同じ著者の手になるものだったりするので、あまり代わり栄えしなかったりします。

 そもそも、研究する側が注釈書を作ることをそれほど重視しません。文学評論のような論文を数多く書くことで、大学への就職の際のポイントを稼ぐことが奨励され、地道な注釈作業は軽視されているんじゃないでしょうか。実は、そちらの方が古典研究の王道のはずなのですが・・・。

 加えて、注釈作業に励む研究者がいても、それを発表する場は限られています。各大学の読書会やゼミなどで、注釈書の手薄な作品の注釈作業が行われていても、発表の場はほとんどないのが現状。だから、注釈書の手薄な作品に関しては、ちょっとその気になって「読み」を入れると、「新説」を打ち出すことが出来るのです。実は、これって、けっこう快感なんですよ。

 ワタシも学生時代、『宇津保物語』という、当時、頼りになる注釈書がほとんどない作品の読書会に参加していましたが、毎週のように「新説」が生まれたものでした。もちろん、無条件に信じられない「新説」もありましたが、コレはスゴい!という画期的な「新説」も数多く出てきました。ワタシ自身、いくつかの「新説」を打ち出したことがあります。コレは快感です。『宇津保物語』は、十世紀末の作品ですから、ざっと千年以上の歴史があります。千年間、誰も気づかなかった「読み」を自分で発見しちゃうわけですから。しかも、『宇津保物語』なんて、海外には研究者がほとんどいないので、日本初はイコール世界初、人類初です。そう考えると気宇壮大。もちろん、「新説」といっても、ある部分の読みに過ぎないので、古典文学史がひっくり返っちゃうようなものではありません。しかし、なんと言っても人類初ですからねえ。~o~

  閑話休題。予備校生が「新説」を打ち出すことのできる、もう一方の理由、それは、単純なことですが、予備校生がその文章に真剣に取り組むからです。しかも、彼らは、注釈書を用いず、純粋に自力で取り組みます。なまじの専門家だと、判らないとなったらまず既存の注釈を見てしまいますが、彼らは、注釈書の存在を知らないし、知っていても実力養成のために自力で訳そうとして文章と格闘します。

 それゆえ、予備校生が持ってくる質問の中には、侮れない「新説」が含まれていたりするんです。もちろん、何年かに一度くらいのことではありますけどね。~o~

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2006年5月27日 (土)

「をる人」をめぐる逍遥

 昨日の「新説」のキモは、「をる人」の捕らえ方にあります。そもそも、「をる人」が何故”家の中にいる人”となるかというと、別に「をる人」に、”家の中にいる人”という固有の意味があるワケではありません。「をる人」は、直訳すれば”いる人”です。副助詞「だに」の働きから推測して、”家の中に”を補って解釈しているのです。つか、それを補わないと解釈できないのです。つまり、所詮、この箇所は、言葉を大きく補わないと理解できない、一種の悪文なのです。 だから、「をる人」をどうとるかには、ある程度、読み手の側に自由裁量の権利というか義務というかが与えられているわけで、早い話が「新説」が生まれやすいのです。

 んで、通説の方、つまり、”家人でさえかぐや姫を簡単に見ることはできない”ととった場合、そんな”家人”とは誰か、を詰めていくとやや苦しいのです。竹取の翁夫婦は、かぐや姫の親がわりですから、かぐや姫を見ることに不自由するはずはありません。また、かぐや姫に仕えているであろう女房達は、かぐや姫と共同生活を送っているはずなので、論外。となると、竹取の翁邸に仕えている下々の召使のような人を考えなきゃならないんだけど、そんなヤツのことがなんでここで話題になるのか、サッパリ判らんのです。この点に関しては、以前から「変だよナ」とは思っていたのですが、なんせ通説の代案が見つからないので、仕方なく通説を教えていました。

 しかし、「新説」の方の読み、つまり、”(男達が)家の中にいる人をさえ簡単に見ることができない”という読み方だと、この「家の中にいる人」は容易に想像がつきます。かぐや姫のお傍に仕えているであろう女房達です。この「新説」の優れた点は、垣間見においては、女房達を見ることも一つの楽しみだったという古典常識に適っていることです。例えば、『源氏物語』において、夕顔宅を垣間見した源氏の従者惟光は、実に楽しそうに夕顔に仕える女房達の様子を語っています。女房達の様子は、そのまま主人である姫君の人間性に直結するからです。

 くわえて、姫君のお傍の女房達を「ある人」などと表現するのは、よくあることです。『蜻蛉日記』などでも、そのような表現がしばしば見られます。女房達は、姫君のお傍にいて当然の人間なので、「ある人(=いる人)」と言えば通じてしまうのでしょう。

 そんなアレコレを考えていくと、どうも、この新説、有力なんですよね~。ただし、質問に来た生徒さん自身は、「をる人」を翁たちだと思っていたようなので、まー、まぐれ当たりに近いんですけどね。(~o~;;; ) でも、まぐれ当たりだってたいしたモンです。 

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2006年5月26日 (金)

負うた子におびやかされ・・・

 昨日、予備校の生徒さんから、授業後、『竹取物語』の次の箇所について質問を受けました。

  「そのあたりの垣にも家の門にも、をる人だにたはやすく見るまじきものを、夜は安きいも寝ず、闇の夜に出でて、穴をくじり、垣間見、まどひあへり。」

 かぐや姫を求める男達が、竹取の翁の家に押しかけるという場面で、通常、諸注釈では、「そのあたりの・・・門にも」の部分を「夜は安き・・・」以下の部分につなげて読み、

 ”(男達は)翁の家のあたりの垣根でも家の門のあたりでも、夜は安らかに寝ることもせず、月のない真っ暗な晩に出かけて、土塀に穴をあけ、覗き見し、皆取り乱している”

という文脈の間に、「をる人だに・・・見るまじきものを」が挟み込まれていると見て、「をる人だに・・・」を、”家の中にいる人でさえかぐや姫を簡単に見ることはできないのに”と解釈し、

 ”(男達は)翁の家のあたりの垣根でも家の門のあたりでも、家人でさえかぐや姫を簡単に見ることはできないのに、夜は安らかに寝ることもせず、月のない真っ暗な晩に出かけて、土塀に穴をあけ、覗き見し、皆取り乱している”

などと訳します。んで、ワタシも授業では、いろいろと説明をした後、この訳をしたのです。ところが、質問というのが、

 「『をる人』が”家の中にいる人”であることは判りました。でも、『をる人だにたはやすく見るまじきものを』を、”(男達が)家の中にいる人をさえ簡単に見ることはできないのに”ととってしまったのですが、それではダメですか」

 「いや、それはねえ・・・」と否定しかけて、あらら、それもありじゃないかと思えてきてしまいました。つか、その方が良さそうに思えてきてしまいました。うーむ、さすが、ウチの予備校の生徒。もしかして、コレは立派な「読み」かもしれません。「うーん、君の読み方も有り得そうだねえ」と言ってその子を帰しました。

 実際、最新の注釈書を調べてないので、判りませんが、手元の二、三の注釈を見る限り、この「読み」は有力な新説かもしれません。詳しい話は、また明日にでも。

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2006年5月25日 (木)

歌姫の顔

 今朝、TVを見ていたら、YUI主演の映画「タイヨウのうた」の話題で、YUIが竹内結子と一緒に画面の中に登場していたのですが、驚きました。YUIってこんなカワイイ子だったんだ!竹内結子に負けてないじゃん!

 いや、アルバムについている写真は見てますよ。でも、そういう時、YUIはギター抱えて不機嫌そうな顔してるんですよ。だから、キレイな顔立ちだとは思っても、こんなアイドルっぽい可愛さは想像できないんだな~。「タイヨウのうた」のカットも出てきたけど、これまた随分とカワイイ。

 思い返してみると、ワタシが歌姫にホレる場合、たいてい最初は顔を知りません。JAMのYUKIは、初めて顔を見たのが『Motto』のPVで(ザウスの大画面で流してた)、プロレスラーかKISSかってメイクだったので顔は判らず、後でTVで見て「こんなカワイかったの!」ってビックリ。遊佐未森なんて、ファンクラブ入った段階でも顔はよく知らず、椎名林檎は、デビューアルバム『無罪モラトリアム』買ってヘビロテしている時も、まさかCDのジャケット写真でカメラ構えている子が本人だとは気づきませんでした。

 こういうのって、ちょっと古代的かもしれません。古代の歌姫は、たいてい美人とされているけど、顔をはっきり見てる人は多分あんまりいないはず。小野小町だって右大将道綱母だって、本朝三美人なんて言われていても、顔を見た人なんてあんまりいないはずなんですよね。貴族の女性は他人に姿を見せませんからね。歌の上手さだけで「美人」と評価されちゃってるところがある。古代では、歌の上手さこそが異性を引き付ける大事なチャームポイントだったんですよね。

 だから、顔を見ないで歌姫にホレるのは、我ながら古文の教師的だな~と感心しつつ、こんなにカワイイってのは、表現者YUIにとってはマイナスかもしれない、と心配になってしまうのでした。アルドルっぽい売れ方しなきゃいいけどねえ。歌姫なんて、ユーミンとか中島みゆきとか元ちとせ程度のルックスの方が大成するわけで、カワイ過ぎるのは、どーもヤバいな~。「不機嫌」のまま(06'4/4「不機嫌な内向ロック」参照)の方が良いヨ、YUI。

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2006年5月23日 (火)

骨董品を愛する人達

 昨日に続いて、落語の話から。晩年の五代目柳家小さん師匠は、上手いけれども面白くない噺家でした。そのため、一部では「ひび割れの入った骨董品」と呼ばれていたようです。古典落語は、やはり古典なりに面白くなければいけません。古典ですから、当然、現代人が全面的に共感するわけはないのですが、「古典」として残ってきたからには、時代を超えた面白さのエッセンスがあり、その部分が現代人の胸に響くのでなければ、それは「古典」ではなく「骨董品」に成り下がってしまいます。いくら、『笠碁』の目使いが上手くても、それで笑えなきゃ何にもなりません。

 これは、他の芸能でも同様であろうと思います。例えば、ベンチャーズの日本公演だとか寺内タケシとブルージーンズのツアーなどというのも、音楽の感動が既に無く、懐旧の情を呼び起こすだけなら、それは「骨董品」に過ぎないでしょう。

 ところが、どういうわけか、この「骨董品」がお好きな人達が、世の中にはいらっしゃるようです。ベンチャーズが毎年来日したり、寺内タケシがテケテケとツアーを続けているのも、やはりこの「骨董品好き」の人達のおかげなんでしょう。まーワタシにゃ判んないな、そーゆー趣味は。~o~;;

 んで、実は、スキー界にもそういう方達がいます。スキーの世界は、この十年ほどの急激なマテリアルの進化によって、「カービング革命」ともいうべき技術革新がもたらされました。全日本クラスでも、十年以上前のビデオなどに映っている滑りだと、もう笑っちゃうくらい下手だったりします。もちろん、今見ても上手い部分はあるのですが、大回り系などはちょっとどうにもならないくらい違います。

 こうした新しいカービング技術に対応できたのは、恐らく、十年前の技術革新が始まった段階でまだバリバリ滑っていた人達、具体的には、現在の五十歳前後の方達まででしょう。従って、それ以上の年齢の方達は、申し訳ないけど「骨董品」になっている可能性があります。部分的には上手いんだけど、全体として見ると、なんだかな~という滑りになっている昔の「上級者」、結構います。それは元デモンストレーターの方などでも同じで、小回りや小技をやらせるとメチャメチャ上手いんだけど、大回りをやらせると馬脚を現してしまうというのは、よくあることです。

 ところが、こういう「骨董品」の方達に教わりたがる人達ってのが、どういうわけだかいらっしゃるわけで・・・。まぁ、スキーなんて所詮遊びだから、自分の好みに従って滑るのが一番、他人が煩くいうことではない、とは言え、「骨董品」の方達に最新のカービング技術を教わっちゃおうとするのは、どーなんだろー無理があるんじゃないかな、と傍で見ても首をひねってしまいます。

 しかし、物事には何でも例外はあるもので、スーパーな例外オヤジが確かに存在しています。ワタシの見た狭い範囲で、「骨董品」に入っても不思議ではない年代にも関わらず、最新の滑りを体現できてしまうスーパースキーヤーの代表は、中里スキースクールの小林平康先生と八海山スキースクールの山田博幸先生。どちらも往年の名デモンストレーターですが、最新の滑りでバリバリ滑っています。「骨董品」らしい「ひび割れ」はどこにも見当たりません。多分、現役時代から、時代を先取りしたテクニックを使っていたのでしょう。こういうスーパーオヤジには、あやかりたいモンです。 

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2006年5月22日 (月)

語り手の資質

 三遊亭円楽サンが笑点の司会を引退して、銀座落語会で対談をするという話を新聞で目にしました。もう一席語る体力が無いので、対談なんだそうです。それは、聞き手にとっても本人にとっても幸せなのかな、とその記事を読んで思いました。

 落語というのは、もちろん話芸です。モノガタリを語る芸です。従って落語家は、モノガタリの語り手として、無色透明になり消える瞬間がなければいけません。名人と呼ばれる師匠達の芸は、みんな例外なくそうだったと思います。古今亭志ん朝師匠、桂米朝師匠など近年の名人はもちろん、六代目三遊亭円生師匠なども消える名手でした。あの、超個性的だった古今亭志ん生師匠でさえ、モノガタリに没入した時には消えていたものです。

 コレは、実は落語に限りません。古典の物語文学においても、『源氏物語』の語り手は、研究者達から「もののけ」に例えられるほど神出鬼没に消え、また現れます。ちょうどあのありようは、優れた落語家そのものです。『源氏物語』の語りの文体というのは、落語家の語り口を研究することで究められるんじゃなかろうか、などと思うほどです。

 優れた語り手というのは、個性を表に出して個人として語る時と、「語り手」の保護色の中にカメレオンのように溶け込む時で人格が変わらなければならないものだと思います。その点で、円楽サンや立川談志サンというのは、「上手い」かもしれないけれど、優れた語り手にはなりえませんでした。彼らは、個性を消すことが出来ないからです。

 個性的であろうとすることは、現代日本の価値観からすれば悪いことではありません。しかし、こと話芸に関しては、決して褒められたことではないでしょう。その辺を勘違いすると、落語という話芸の行方を見誤ることになる・・・んじゃないかなあ~。~o~;;

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2006年5月21日 (日)

山菜と奥只見な日々

 昨日は、我がホームゲレンデ六日町八海山では、民宿組合の「山菜フェスティバル」という催しがあり、それに参加がてら、またまた奥只見に行ってきました。いやはや、この季節の山菜と奥只見は良い!

 まずは山菜。この時期の越後の山はとにかく山菜が豊富です。ちょっと山道を歩けば、誰でも簡単に採れる・・・らしいです。自分では採りに行ったことないワタシですが。~o~;;

 この時期、フキノトウやコゴミ、山独活なども良いのですが、ワタシの一番のお気に入りはこの地方で「キノメ」と呼ばれる物。アケビの蔓の新芽らしいんですが、これがンマイ!オヒタシにするとちょっとホロ苦くて、最高の酒の肴です。料理も簡単だしね。

 んで、コレを皿一杯平らげながら、銘酒八海山を酌んだ翌日は、快晴の奥只見。雪はちょっと悪いけど、コブも滑り頃に育ってるし、眩しい新緑の中、楽しい一日でした。月並みな感想ですが、これで明日仕事がなければ・・・ねえ。~o~;;;

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2006年5月19日 (金)

先生の育て方

 昨日、予備校で仕事が終わった後、職員用のトイレに入ろうとしたら、先客がいたので、外で待っていました。そうしたら、出てきたのはアルバイトの大学生で、彼は、外で待っていたワタシを見て本当に申し訳なさそうに、「スミマセン」と言って慌てて出て行きました。別に、トイレに先に入ってたくらいで謝られる筋合いもないので、ちょっと返答に困ったのですが、予備校というところは、この一件にもよく顕れているように、我々講師に過剰なほどのリスペクトを払ってくれます。

 これは、アルバイト君だけではなく、一般の職員も同様です。我々は、授業に向かう際に必ず、職員から、「よろしくお願いします」と頭を下げられて送り出されます。もちろん、一般の職員ということになると、腹の中は知れたものではありませんが、それでも表面上は慇懃な態度を取ってくれます。この関係は、職員がどんな役職の職員であっても(一部例外あり~ ~o~;;;)、講師がどんな駆け出しの新任講師であっても同様です。コレって考えてみればすごいことです。

 こういう、先生をリスペクトする態度って、必ず生徒に伝染します。だから、予備校では、普通の生徒は講師に対して一応のリスペクトを払ってくれます。もちろん、そうでない一部の「お生意気なお子さん」「常識をご存知ないお子さん」(罵詈雑言に置換して読むこと)も存在はしますが、ある程度のレベルの授業さえしていれば、普通の生徒は講師に対する礼儀を、めったなことで失することはありません。

 こういうことって、実は、先生を育てる上で大事なんじゃないかなと思います。ワタシ自身も、随分救われてきました。まだ、駆け出しの講師で、実力不足を誰よりも本人が判っていて、ビクビクしながら教壇に上がり、「お生意気」な生徒さんの質問に怯えていたあの頃、ワタシを支えてくれたのは、職員さん達の作り出す「先生をリスペクトせよ」という雰囲気だったと思います。

 翻って、普通の小中高の先生達は、お気の毒だなという思いを禁じえません。なにしろ、「先生をリスペクトせよ」という雰囲気を、誰も作ってくれないのですから。これを自分一人で作り出すのはタイヘンですよ~。小学校や中学校で生徒さんを御しきれない先生の話を、時々耳にしますが、その度に胸が痛みます。この人達は、誰も味方がないんだろーなーって。

 生徒さんをコントロールできない先生が生まれるのって、実は、生徒の父兄を始めとした周囲の責任でもあるんです。母親が、「あの先生はダメよ」って言ってるのを聞いたら、どんな子供だって、先生をリスペクトしないですよね。生徒からのリスペクトがなければ、生徒をコントロールすることなど出来るわけがありません。それなのに、先生の力不足ってことになってしまう・・・。こういうのは、本当にお気の毒な関係です。

 だから、ダメな先生の話を聞くたびに、「オレは予備校屋で良かった~」と思ってしまうワタシなのでした。

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2006年5月18日 (木)

予備校のキャッチコピー

 今、町田の校舎に授業に来ています。この町田という所は、東京のベッドタウンとして急激に開けたところなので高校生が多く、それをターゲットとした各予備校が校舎を作って、しのぎを削っている所です。そんな場所なので、駅から校舎までの間に、各予備校のポスターが張ってあったりします。特に中堅予備校のポスターが目に付くんですが、これがなんだか、突っ込みを入れたくなる妙なシロモノで・・・。授業の空き時間のつれづれに、とりあえず突っ込んでみました。

 「大学生になっても行きたい塾 ○○○塾」                                           

 おいおい、大学生になったら大学行けヨ。大学生になって予備校に戻りたくなるような後ろ向きのことでどーすんだよ。もしかして、これは、「ウチの塾に来ても、後で予備校に戻りたくなるような情けない大学にしか入れませんよ」という謙遜なのかしらん。~o~

 「なんで私が東大に? ○○学院」                            

 そりゃそうだ、こんな情けないコピーで売るような予備校に行っといて、なんでコイツ東大に行けたんだろ、よっぽと本人が優秀なんだろな~~。~o~ 

 「本気なら、○○予備校」                                      

 受験生が本当に「本気」になれば、予備校なんて何処でも同じようなもの。ホントにホントにやる気になれば何処でも勉強は出来ます。コレは、予備校関係者なら納得してもらえる真理です。ってことは、もしかして、「本気なら、ウチみたいな所へ来ても大丈夫ですよ」という謙遜なのか?~o~

 まー、ウチも決して宣伝上手とは言えませんがねぇ・・・。

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2006年5月16日 (火)

モアチャレンジ

 先日の日曜日、モーグラータクヤと別のスキー友達と三人で、奥只見丸山スキー場に行ってきました。いや~、毎年のことですが、この季節の奥只見は下界とは別世界です。つか、今年は特にその感が強いです。まだまだ、雪たっぷり。積雪が2~3mあります。んで、午前中雨が降ったこともあって、ガラガラ。雪はちよっと汚れているけど、かなり楽しめました。

 それにしても、タクヤはスサマジイです。あらゆるギャップが彼のエアトリックのステージになり、あらゆるコブ斜面が彼のアタックの餌食になります。とまあそこまでは、ヤツの専門種目だから、まー許すとして、コブ斜面の大回りなんて専門外のものまで、ワタシより速いのは困ったもんだ。不整地大回りは、ワタシの一番の得意種目なのに・・・。~o~;;;

 んで、奥只見の全ての斜面で、彼はナショナルチームのテクニックを見せ付けてくれちゃったワケですが、帰り際の整地で、「○○さん、小回りしてよ」って言うんですよ。何だろ、と思ったけど、ちょうど整地小回りの練習しごろの斜面だったので、ちょっと本気で小回りして、振り返ったら、ナント、ヤツは後ろにピッタリくっ付いてワタシのシュプールをトレースしてきたのでした。

 正直言って、彼には、もうほとんどどんな滑り方でも敵いそうにありません。昨年までは、コブでは全く敵わなくても、大回りでは勝ってるし、整地小回りでも、基礎の競技会でなら勝てると思ってました(実際、彼が冗談で出た基礎の競技会では勝ちました)。でも、今年の彼の進歩は、もうメチャクチャなので、大回りでは勝てる気がしなくなり、整地小回り(コレも、結構ワタシの得意種目)でも、アヤシイもんだと思っていたのですが、どうやら、追いつかれたらしひ・・・。

 それにしても、モーグルのナショナルチームなんだから、モーグル以外のことはやったって仕方ないんですが、どうやら彼は、あらゆるスキー技術にチャレンジしたいらしいのです。それも、自分にとって新しい滑り方へのチャレンジが面白くて仕方ないらしいんです。だから、ワタシみたいなジジイからも、何かを吸収しようとしてるらしい・・・。

 コレは、スゴイことです。スキーってものは、チャレンジがなくなったら、つまらなくなります。自分の限界にチャレンジしている時って楽しいもんなんです。そんな真理に15才のガキの分際で気づいているとは・・・。コイツ、もしかして、”天才”なんだろーか。ちょうど、アルペンスキーの佐々木明みたいに。

 翻って、ワタシ自身、新しい滑りへのチャレンジを最近忘れてました。昔は、ムチャなチャレンジばっかりしてたのに。ワタシの尊敬するスキーヤーで、オーストリアデモの故マルティン=グガニックは、生前、レッスンのたびに言ってました。「モアチャレンジ!」。そーだヨ、オレ最近、チャレンジを忘れてたな~。「モアチャレンジ!」。まだ、自分の技術に安住するほど、オレ、完成されたスキーヤーじゃないもんな~~、と15才の子供に教えられた一日でした。

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2006年5月13日 (土)

誕生日ありがとう

 今日は、誕生日なのだそうです。誰の、ってそりゃモチロンワタシの。~o~

 どうも、こう腐るほど年をとると、自分でも何だかあんまりおめでたいと思えず、そろそろ書類の年齢欄に書く数字を一つ多くする時期だなあ、というくらいにしか感じていません。他人様もあまり気にしてくれなくなり、ここんとこ何年か、誕生日おめでとうをniftyと母親くらいにしか言われていなかったような気がするのですが、どういう訳か今年は、すでに何人かの人から祝っていただいています。年男だからなんでしょうか。

 それとも、「もう、あんまり祝う機会も多くなかろうから、チャンスのあるウチに言っとこう」という配慮・・・、とまでヒネくれちゃあ人間もおしまいですねえ。~o~;;  やはり、おめでとう、と言われればうれしいもんです。てなワケで、お誕生日ありがとう。~o~

 さて、誕生日割引のある洗濯屋に、冬物の上着を出しに行こうっと。

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2006年5月12日 (金)

述べて作らぬ歌姫~平原綾香『4つのL』

 平原綾香のニューアルバム『4つのL』をしばらく前からヘビロテしています。イヤハヤ、やっぱり「あーや」はスゴいわ。

 『4つのL』は、最初と最後にNHKトリノオリンピック放送テーマ曲の『誓い』を異なったバージョンで収録しているのですが、そのため、お見事に全曲のバックに、オリンピックの物語が見えてきてしまいます。トリノとは全く無関係の「子供を救おう!未来を守ろうキャンペーンソング」であるはずの『スタートライン』を聞くと、負傷を乗り越えた皆川賢太郎のスーパーランが見えてきます。「采雲国物語」のオープニングテーマ曲『はじまりの風』の背後には、爽やかに戦ったカーリング娘の健闘が見えてきます。そして、何といっても、『誓い』で見えてくるのは、荒川静香とイナバウアー!~o~

 トリノの物語をアルバム全体に纏わせることによって、スポーツの感動を一曲一曲に被らせてしまう、コレって狙ってやったことだと思うんですよね。だから、オリンピックのイメージを意識的に遮断して聞くと、何だかアルバムのテーマがボケてしまうように感じます。実は、このアルバム自体は、テーマや物語を持っていません。にもかかわらず、アルバム全体が感動的に仕上がっているのは、オリンピックの世界を纏っていることと平原綾香の超絶的な歌唱力の賜物でしょう。

 例えば、ゲームソフト「大神」のテーマ曲『Reset』は、和風のアレンジで桜散る情景を歌いますが、詩自体は耳触りの良い言葉を並べただけの空虚なものです。しかし、あーやが歌うと何故か詩になってるんですよ。大変なヴォーカルテクニックです。

 しかし、彼女は自分の物語を紡ぎ出すことが出来ません。彼女の作詞になる作品が、このアルバムには七曲も含まれているのですが、いずれも、品の良い着想を得て耳触りの良い言葉を選び佳品に仕上がっているものの、詩自体に物語や思想を伝える力はありません。作詞家としての彼女は何も創り出していないと言っても良いでしょう。にもかかわらずにもかかわらず、これだけ感動的なアルバムになっているは、繰り返しますが背後に纏ったトリノの物語とその感動を引き出す彼女の超絶的歌唱力の賜物です。

 この事は、ちょうど、彼女のデビュー曲にして最大の名曲『ジュピター』を、あれだけの名曲たらしめていたのが背後に纏った難病の少女の物語であった事と、正確に見合っていると言えるでしょう。平原綾香は、何も物語を創り出しません。しかし、背後に控えた現実の圧倒的な物語を、彼女の歌唱は本当に感動的に語り尽くします。述べて作らぬ歌姫、それは密かに儒教的でさえあります。

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2006年5月10日 (水)

タイムリーな質問

 昨日、某有名講師Aの話を書いたら、今日、たまたま、某有名講師Aに昨年教わっていたという生徒が質問に来てしまいました。昨年、他の中堅予備校で、衛星放送のAの授業を取っていたらしいのです。

 んで、Aの授業の何処が「使えない」かという話になり、「『98%』なんて言ってる所はたいてい使えない。例えば、『人物の直後に読点があるとき、98%主語』なんてヤツは危ないね」って話をしたところ、「A先生、上位クラス対象の授業だと、『98%主語』と言わずに、『難関校を受ける人は90%くらいだと思ってください』と言ってます」だって。

 思わず、失笑してしまいました。いかにも、この人らしいゴマかし方なので。だって、難関校だろうが下位校だろうが、出題される古文に違いがあっちゃあ可笑しいでしょう。主体判定の設問にしても、そんなに違う箇所を問うわけじゃなし。よしんば、難関校は意地の悪い例外的なところを主体判定の設問にするという理屈を認めたにせよ、主体の勘違いは他の設問に必ず影響しますから、難関校を受けない子だって、「98%」などと考えていてはマズいはず。「98%」の危険度は同じです。

 要は、「難関校を受けない子は、例外の箇所を見つける能力がないから、『98%』と思わせておけば良いけど、難関校を受ける子は例外を見つけてきてウルサイので言い逃れの利く数字まで下げておこう」というこの人の側の一方的な都合です。「98%」と思い込まされて、本番で致命的なミスをしてしまった難関校を受けない子は、いい面の皮です。そして、もっと「面の皮」なのは、参考書を買ってマジメに勉強してしまった人たち。誰に責任取ってもらえば良いっちゅうの?

 こういう話を聞くと、つくづく予備校屋は人気先行ではいけないモノだと思います。この人だって、人気が先行して参考書を早い時期に出版していなければ、毎年の授業の中で少しずつ微調整をして、「98%」を「90%」くらいまで下げることは出来たはず。でも、参考書を出版してしまっているので、そういう調整は不可能なんでしょう。その年の授業の中で、いきなり「95%」とかって数字にしてしまったら、「参考書には『98』って書いてあるのに・・・」って質問が来るでしょうから、参考書の信用度、全く無くなっちゃいますもんねえ。

 それにしても、こんな人の参考書が一番売れてるって現状を、どう思っているんでしょう、主な出版元になっている「学○研究社」サン。やっぱ、売れるが勝ちですかねえ。

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句読点幻想その二

 質問を受けた後、ちょっと気になって某有名講師Aの参考書を調べてみたら、やはり、ありました。某有名講師Aの参考書には、「接続のいろいろ」という章があります。このこと自体は問題ないのですが、そこに、助動詞の接続などと並んで、「記号の接続」という項目があり、「読点の直前は、原則として連用形です。『連用形、』と覚えましょう。」などと書いてあります。

 この部分、まともな古文教師には、まず発想できません。というのは、句読点が続くことを普通は「接続」と呼ばないからです。昨日も述べたように句読点は現代語の記号です。句読点やカギ括弧が付くことを接続と呼ぶのは、レタスを乗せたトレーを「野菜」と呼ぶようなものです。八百屋さんがトレーを絶対に「野菜」と考えないように、我々にとって、「句読点の接続」という発想は驚天動地の発想なのです。

 大学で古典文学をちょっとマジメに勉強すれば、句読点もカギ括弧も濁点もついていない古典作品の写本を目にする機会があるはずです。我々は、そういう物を通じて、これらの記号が古典作品プロパーとは本来無縁の、単なる「入れ物」であることを実感させられます。ちょうど、レタス畑を一度でも見れば、レタスにとってトレーが異質の物であると実感できるように。だから、句読点を古文の一部であるかのように扱う発想には全くついていけないのです。このAという人、某J大学の国文科を卒業しているはずなんですがねえ・・・。

 しかも、この「句読点の接続」という項目は、受験生にとってもマイナスです。昨日も書いたように句読点の使用箇所はテキストや問題によって微妙に異なります。折角覚えた「接続」が、句読点を施す出題者の感覚によってズレてしまうかもしれません。そして、何より一番マズいのは、この「接続」は、折角覚えておいても入試問題を解くのに使うチャンスがほぼ皆無だということでしょう。連用形中止法の部分の活用形を問うなどという問題、出されたのを見たことがないもの。仮にあったとしても、その動詞の活用を考えりゃ活用形を割り出すのは難しくないしねえ。

 某有名講師Aの参考書には、この他にも句読点関係のオカしな記述が見られます。例えば、

 「人物の直後に読点があるとき、98%主語になる」

 繰り返しますが、句読点てのは、出題者の感覚で位置がズレるんです。例えば、「昔、男、ありけり」とするか「昔、男ありけり」とするかは、あくまでも出題者の好みなのです。それをどうやって「98%」って数えたんでせうかねへ・・・。~_~;;;;;

 受験ということを離れて考えた時にも、この句読点を古文の一部と考えるような感覚を身につけてしまった生徒さん達は、何処かで恥を掻くことになるのではないかと思います。その子達が国文学科や日本文学科などという専門を選ばないことを祈るばかりです。

 それにしても、こんな本が売れているってどういうことなんでしょう。こんな本を推薦する大○鹿モンの高校教師がいたりする現状って・・・。今回のことで一番恐ろしいのは、昨日の質問の生徒が直接Aの本を読んだのではなく、どこやらの中小の「塾」で教わっているということです。Aのこのデタラメの教えをマトモに信じている教師がいるってことです。つまり、Aの教えはこれから先、鼠算式に拡散していくのかも・・・。

 <後日記>

 「ニラ爺さん」さんがコメントを寄せてくださった書籍に関しては、2008.6.26の「誤謬と欺瞞の連鎖」に詳しい記事があります。

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2006年5月 9日 (火)

句読点幻想

 GWも明けて、今日から通常授業再開です。ちとツライです。疲れます。

 それはさておき、先週の月曜、連休の合間の授業でヘンテコな質問を受けました。次の『竹取物語』の文章に関する質問です。

 「あたりを離れぬ君達、夜を明かし、日を暮らす、多かり。」

 「『暮らす』は、次に『、』が打ってあるので連用形のはずなのに、何故『暮らす』なんですか?」

 古文をちょっとでも判っている人なら、脳ミソが逆上がりしそうな質問です。意味が全く不明なんです。「暮らす」は、ここでは四段活用動詞の連体形で、所謂「準体法」という用法。早い話が連体形の下の名詞が省かれている形。この場合、「人」が省かれていると考えれば上手く訳せます。そこに何ら疑問の余地はありません。にも関わらず、「『、』が打ってあるので連用形のはず」ってのは、何なんだぁ????

 頭が混乱してきたので、その子にゆっくり丁寧に問い質してみたところ、「前にいた塾で、動詞の下に読点が打ってあったら、それは必ず連用形だと教わりました」と言うんですよ。イヤハヤ・・・。

 連用形には中止法と呼ばれる用法があり、文章を一旦区切る働きがあります。例えば、

 「空は青く、雲は白い」「本を読み、ノートを取る」

という時の「青く」「読み」は連用形中止法です。文が「青く」や「読み」で一旦区切れているのが判ります。それで、中止法の下には読点を打つことが多いのは事実です。しかし、現代語で考えても、連用形中止法の下に、必ず読点を打つとは決まっていません。「空は青く雲は白い」「本を読みノートを取る」とつなげて表記しても何ら問題はありません。

 しかも、古文で、とういうことになると・・・。大きな問題があります。だって、句読点て、現代語の記号だもの。オリジナルの古文の写本には句読点なんて無いワケで、教科書やテキストや受験問題に句読点が打ってあるのは、あくまで現代の人間が読み易いように打ったもの。いわば、現代人向けのサービスです。だから、同じ文章でもテキストにより問題によって句読点の位置は微妙に違ったりします。その句読点で活用形を決めちゃうというのは・・・。古文を専門でやった人間には考え付かない発想です。発想そのものがもうデタラメなんです。

 んで、このデタラメの教えなんですが・・・、どうやら出所は、例の某有名講師Aの参考書らしいんだよなぁ。~o~;;;;;;

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2006年5月 7日 (日)

BBQ日和

 連休最終日の今日は、朝から雨!ペンションの窓の下の田んぼの水面に雨が容赦なく打ち付けています。この田んぼも、ゴールデンウィークの最初の頃は、ほとんど雪に埋もれていたのですが、今ではほぼ完全に水田の形をしています。昨日あたりから、ようやく蛙が鳴き出しました。例年だとゴールデンウィーク頃は、この水田に囲まれたペンションの夜は、煩いほどの蛙の鳴き声に包まれるのですが、今年はまだ、蛙も遠慮がちです。

 朝食を摂り終わっても、相変わらず雨が降り続いていて、一面に靄まで立ち込めてきました。スキー場に行く気分が大分スポイルされています。常識的にこの状況は、「まぁ今日はスキーをせずに、道中、温泉にでも入ってゆっくり帰りましょう」パターンなのですが、今日はスキー場最終日でもあり、また、こういう日に滑りに来る客はみんな筋金入りのスキー馬○なので、多分、滑りに行くことになります。と書いているヤツが一番の大○鹿だったりするワケで・・・。~o~;;;

 昨日は、好天に恵まれてスキー場の雪の上でBBQでした。この雪上BBQがゴールデンウィークスキーの醍醐味です。昨日は、ちょっと肌寒かったので、震えながらではありましたが、まあまあのBBQ日和。新緑のゲレンデを滑ってくるスキーヤー達や、BBQのすぐ横に作ったエア台で、ペンションの息子タクヤ(とうとうモーグルのナショナルチーム入りしてしまいました)がバックフリップしたりするのを見ながらのBBQはちょっとオツなもんです。普段、ゲレンデでは飲まないビールを痛飲、ほろ酔い気分でコブ斜面に滑りに行くと、これがまた、面白いようにコケたりするのですが、この季節は雪が柔らかいので、それもまた一興というところ。楽しい一日だったのですが、今日は・・・。

 まあ、仕方ない。カッパ着て滑りに行くかぁ~。~o~ 

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2006年5月 5日 (金)

お休みは休もう

 今、連休を利用して毎度おなじみのスキー場に来ています。今年は、豪雪の年だったので、スキー場はまだまだハイシーズン並みに雪があります。例年、四月中旬頃にほとんどのスキー場はクローズドするし、五月連休を過ぎると開いているところが極端に減るのですが、今年に限ってそれは、雪が解けて無くなるからではなく、お客さんが来なくなるのと従業員が確保できないから。なにしろ、スキー場の従業員さんって農業関係の人も多いので、農閑期しか働けなかったりするんですな。

 んで、五月連休中は、我がホームゲレンデ六日町八海山も開業しています。連休中は、のんびりスキー三昧なのですが、今日、風呂に入りながら、スキー友達から恐ろしい質問をされてしまいました。「おたくの予備校じゃゴールデンウィークの特別講習なんてないの?」 あわわ、恐ろしや恐ろしや。なんてこと言うんじゃい。

 数年前まで、ウチの予備校は正月は休んでいました。よそ様で正月の特別講習などをやって、TV画面で気勢を上げていたりしても、全く他人ごと。正月三が日は休むものと決まっていました。ところが、数年前、実験的に正月の特別講習をやってみたら、生徒さんが集まっちゃったんですね。んで、今では正月もごく普通に冬期講習をやっています。

 これって、どーなんだろーと思うんですよね。受験生に盆も正月もないとは言いますが、やはり、人間として、一月一日くらいは休む方が自然じゃないだろか。というワケで、ワタシゃ三が日だけは休ませてもらってますが、働いてしまう講師多くなっています。学校側もなんだか余裕のない職員さんが多くなり、儲けられる時には儲けようみたいな浅ましい風潮が、今まで美しき「トノサマ商売」をしていたウチの予備校にも定着しつつある気がします。

 んで、「ゴールデンウィーク特別講習」なんて儲かりそうなものに、そういう余裕のない職員さんが気づいてしまったら・・・。止めてよ~~~~。~o~;;;

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2006年5月 4日 (木)

ブログ再開の辞

 そろそろ、再開しなくちゃと思っていたのですが、あれだけ重いモノを書いた後って、何を書いたら良いやら・・・って感じで、ちとボンヤリしてました。ところが、同僚講師の方のブログに「ブログの平均寿命は一年前後」と書いてあったのを見て、へそ曲がりなワタシは俄然やる気を出してしまいました。~o~;;

 今年度は、地方校舎に出講しなくなった関係で、やたらに朝の授業が入り、「8:50から横浜」「8:40から池袋」などという今まででは考えられなかったようなスケジュール。冗談じゃねーよ。朝の通勤電車に一時間も揺られてくんだゼっ!

 という愚痴を同僚講師に垂れたところ、一言、「ソレ普通ですよ」と一蹴されてしまいました。だって、今まで地方出講があったので、家から遠い校舎の朝の授業は免除されてたんだもん。~o~;;;

 んで、今年度はいきなり朝型人間にならざるを得ず、おまけに慣れない通勤電車に乗らざるを得ず、疲れまくってます。今は連休中なのでブログを書く余裕もありますが、果たしてこれから先どーなんですかねぇ。~o~

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