古文解釈の愉悦
たかが予備校の生徒さんが「新説」を考え出してしまうというのは、信じられないと思う方もいらっしゃるかも知れませんが、実は大いにありえることです。
まず、古典文学の側の事情。古典文学の注釈書というのは、『源氏』など一部の作品を除けば、実は結構手薄です。そこそこ有名な作品でも、あてになる注釈書は一、二種類しかないということは、それほど珍しくありません。古典文学全集は何通りか出版されていますが、研究者が少ないと同じ著者の手になるものだったりするので、あまり代わり栄えしなかったりします。
そもそも、研究する側が注釈書を作ることをそれほど重視しません。文学評論のような論文を数多く書くことで、大学への就職の際のポイントを稼ぐことが奨励され、地道な注釈作業は軽視されているんじゃないでしょうか。実は、そちらの方が古典研究の王道のはずなのですが・・・。
加えて、注釈作業に励む研究者がいても、それを発表する場は限られています。各大学の読書会やゼミなどで、注釈書の手薄な作品の注釈作業が行われていても、発表の場はほとんどないのが現状。だから、注釈書の手薄な作品に関しては、ちょっとその気になって「読み」を入れると、「新説」を打ち出すことが出来るのです。実は、これって、けっこう快感なんですよ。
ワタシも学生時代、『宇津保物語』という、当時、頼りになる注釈書がほとんどない作品の読書会に参加していましたが、毎週のように「新説」が生まれたものでした。もちろん、無条件に信じられない「新説」もありましたが、コレはスゴい!という画期的な「新説」も数多く出てきました。ワタシ自身、いくつかの「新説」を打ち出したことがあります。コレは快感です。『宇津保物語』は、十世紀末の作品ですから、ざっと千年以上の歴史があります。千年間、誰も気づかなかった「読み」を自分で発見しちゃうわけですから。しかも、『宇津保物語』なんて、海外には研究者がほとんどいないので、日本初はイコール世界初、人類初です。そう考えると気宇壮大。もちろん、「新説」といっても、ある部分の読みに過ぎないので、古典文学史がひっくり返っちゃうようなものではありません。しかし、なんと言っても人類初ですからねえ。~o~
閑話休題。予備校生が「新説」を打ち出すことのできる、もう一方の理由、それは、単純なことですが、予備校生がその文章に真剣に取り組むからです。しかも、彼らは、注釈書を用いず、純粋に自力で取り組みます。なまじの専門家だと、判らないとなったらまず既存の注釈を見てしまいますが、彼らは、注釈書の存在を知らないし、知っていても実力養成のために自力で訳そうとして文章と格闘します。
それゆえ、予備校生が持ってくる質問の中には、侮れない「新説」が含まれていたりするんです。もちろん、何年かに一度くらいのことではありますけどね。~o~
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