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2006年5月22日 (月)

語り手の資質

 三遊亭円楽サンが笑点の司会を引退して、銀座落語会で対談をするという話を新聞で目にしました。もう一席語る体力が無いので、対談なんだそうです。それは、聞き手にとっても本人にとっても幸せなのかな、とその記事を読んで思いました。

 落語というのは、もちろん話芸です。モノガタリを語る芸です。従って落語家は、モノガタリの語り手として、無色透明になり消える瞬間がなければいけません。名人と呼ばれる師匠達の芸は、みんな例外なくそうだったと思います。古今亭志ん朝師匠、桂米朝師匠など近年の名人はもちろん、六代目三遊亭円生師匠なども消える名手でした。あの、超個性的だった古今亭志ん生師匠でさえ、モノガタリに没入した時には消えていたものです。

 コレは、実は落語に限りません。古典の物語文学においても、『源氏物語』の語り手は、研究者達から「もののけ」に例えられるほど神出鬼没に消え、また現れます。ちょうどあのありようは、優れた落語家そのものです。『源氏物語』の語りの文体というのは、落語家の語り口を研究することで究められるんじゃなかろうか、などと思うほどです。

 優れた語り手というのは、個性を表に出して個人として語る時と、「語り手」の保護色の中にカメレオンのように溶け込む時で人格が変わらなければならないものだと思います。その点で、円楽サンや立川談志サンというのは、「上手い」かもしれないけれど、優れた語り手にはなりえませんでした。彼らは、個性を消すことが出来ないからです。

 個性的であろうとすることは、現代日本の価値観からすれば悪いことではありません。しかし、こと話芸に関しては、決して褒められたことではないでしょう。その辺を勘違いすると、落語という話芸の行方を見誤ることになる・・・んじゃないかなあ~。~o~;;

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