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2006年5月27日 (土)

「をる人」をめぐる逍遥

 昨日の「新説」のキモは、「をる人」の捕らえ方にあります。そもそも、「をる人」が何故”家の中にいる人”となるかというと、別に「をる人」に、”家の中にいる人”という固有の意味があるワケではありません。「をる人」は、直訳すれば”いる人”です。副助詞「だに」の働きから推測して、”家の中に”を補って解釈しているのです。つか、それを補わないと解釈できないのです。つまり、所詮、この箇所は、言葉を大きく補わないと理解できない、一種の悪文なのです。 だから、「をる人」をどうとるかには、ある程度、読み手の側に自由裁量の権利というか義務というかが与えられているわけで、早い話が「新説」が生まれやすいのです。

 んで、通説の方、つまり、”家人でさえかぐや姫を簡単に見ることはできない”ととった場合、そんな”家人”とは誰か、を詰めていくとやや苦しいのです。竹取の翁夫婦は、かぐや姫の親がわりですから、かぐや姫を見ることに不自由するはずはありません。また、かぐや姫に仕えているであろう女房達は、かぐや姫と共同生活を送っているはずなので、論外。となると、竹取の翁邸に仕えている下々の召使のような人を考えなきゃならないんだけど、そんなヤツのことがなんでここで話題になるのか、サッパリ判らんのです。この点に関しては、以前から「変だよナ」とは思っていたのですが、なんせ通説の代案が見つからないので、仕方なく通説を教えていました。

 しかし、「新説」の方の読み、つまり、”(男達が)家の中にいる人をさえ簡単に見ることができない”という読み方だと、この「家の中にいる人」は容易に想像がつきます。かぐや姫のお傍に仕えているであろう女房達です。この「新説」の優れた点は、垣間見においては、女房達を見ることも一つの楽しみだったという古典常識に適っていることです。例えば、『源氏物語』において、夕顔宅を垣間見した源氏の従者惟光は、実に楽しそうに夕顔に仕える女房達の様子を語っています。女房達の様子は、そのまま主人である姫君の人間性に直結するからです。

 くわえて、姫君のお傍の女房達を「ある人」などと表現するのは、よくあることです。『蜻蛉日記』などでも、そのような表現がしばしば見られます。女房達は、姫君のお傍にいて当然の人間なので、「ある人(=いる人)」と言えば通じてしまうのでしょう。

 そんなアレコレを考えていくと、どうも、この新説、有力なんですよね~。ただし、質問に来た生徒さん自身は、「をる人」を翁たちだと思っていたようなので、まー、まぐれ当たりに近いんですけどね。(~o~;;; ) でも、まぐれ当たりだってたいしたモンです。 

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