感情表現欠乏症の研究その二
先日、韓国映画『漢河の怪物』を見た時のこと。この映画は、娘を怪物に殺された父親が出てくるのですが、この人が娘の葬式で人目も憚らず泣き喚くんですよ。もう、ちょっと笑っちゃうくらいに。ここまで取り乱す父親、有り得ねーだろー、って思いながら、一方で、韓国なら有り得ることなのかもしれないと思い直しました。日本人では、あの感情表現は有り得ません。でも、あの映画は「有り得ない父親」をテーマとした映画じゃありませんからねえ、韓国なら有り得る範囲なんでしょう。
あんな時、日本人は悲しみを押さえ込んで表現しないことを美徳としてきました。先日、娘を交通事故でなくした芸能人の父親が、TVカメラに向かって悲しみを堪えてコメントする姿がTVで流れましたが、あれが日本人の父親の姿です。我々の国では、あの姿を見て賞賛する人はいても、異常を感じたり非難する人間はいません。
全く同様の話が、中世の説話集『十訓抄』には西行法師のこととして出てきます。西行法師がまだ在俗で北面の武士だった頃、可愛がっていた娘に死なれたのですが、その報を同僚の武士達との競射の場で聞いた西行は、少しも様子を変えず、人にも知らせなかったというんです。西行は、このことで同僚の武士から「ありがたき心なり」と賞賛されています。
この説話の背景には、無論、仏教思想が隠れています。説話中の西行の行動は、「色即是空」「諸行無常」の悟りを得ているからこそのことなのでしょうし、だからこそ西行は、説話中で「ありがたき心」と賞賛されているのです。
しかし、この説話を『十訓抄』の中に収めた人物は、西行を有り得ないほどの仏教の聖者として扱っているわけではありません。いくつかの「堪忍」の逸話とともに並列して語った後、「これらは理こそ変れども、皆、物に堪へ忍びたるたぐひなり。こころばへもて鎮めぬ人は何事もはなばなしくけしからぬなり」と一般化してしまいます。西行の行動は、仏教思想の枠の中ではなく、「堪忍」という一般的な倫理の枠の中に整理されてしまうのです。
早い話、この説話の編者にとっては、この西行の逸話は、仏教説話じゃなく、一般的な美徳の話なんですね。でもね、娘が死んでも全く悲しみを表現しない父親って、世界的に見てどうなんだろ。「感情表現欠乏症」ってことにならないのかしらん。少なくとも、『漢河の怪物』の父親に共感する文化の人達にとっては、西行の話は「美徳」ではなく「異常」と映るんじゃないかしらん。
閑話休題。感情表現の抑制を、我々の社会が伝統的に美徳としてきたことはどうやら間違いありません。
しかし、もし「伝統的美徳」が「笑わない教室」の理由だとしたら、教室には以前から笑い声がなかったはずです。ところが、十年前の子供達は、教室でかなり激しく感情表現していました。教室大爆笑なんて、予備校ではごく普通だったんです。いったい何故、現代の子供達の中に「伝統的美徳」は甦ってしまったのでしょう。
うーん、簡単には答えが出そうもない問題ですねえ。そんなこと考えてる暇に原稿書いてくださいよっ!って言ってきそうな方達が二人、三人・・・。~o~;;
| 固定リンク
コメント
こんばんは!みっくんです。
先月の水曜から、大学のアパートに移り住んでます^^
そんで今日、2泊3日の予定で実家にいます。
実は、ぼくが入る学科が心理学で、仏教の概念も学ぶらしいんですよ。
もしかしたら授業でやるかも・・
わかんないですけど^^;
投稿: みっくん | 2007年4月 1日 (日) 21時00分
ども、お久しぶりです。いよいよ大学生活スタートですか。良いですねえー。人生で一番ワクワクする楽しい時でしょう。ワタシも出来ることなら戻りたひ…。~o~
専門は心理学なんですね。面白そうですねえ。なんかワタシの書いてることと関係ありそうなことが出てきたら教えてください。
投稿: Mumyo | 2007年4月 1日 (日) 23時20分