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2007年3月30日 (金)

感情表現欠乏症の研究その一

 感情表現欠乏症で思い出しましたが、どうも、日本人は感情表現しないことを美徳としてきた歴史があります。例えば、「笑う」ということはタブー意識を伴う行為だったのではないかと思われます。

 古代においては、「人笑われ」は最大の恥辱でした。これは貴族社会でもそうだし、武家社会でも同様。

 落語の方では、「昔の武士は、借金をした時に『借用の金子返却せざる時は人中でお笑いくだされても構わず候」という証文で金を貸してくれた。今だったらよろしな~。落語家みんな喜んで借りまっせぇ」なんて、米朝さんのマクラにあります。

 そもそも、伝統的に「人笑われ」を最大の恥辱とする日本社会において、笑われることを職業とする落語家には、恥辱を一手に引き受けてしまう者の覚悟と開き直った者の矜持がありました。

 「昔は、武士が道の八分を歩いた。農工商が残りの二分を歩いた。落語家なんざ歩くとこないからドブん中這って歩いた」という志ん生師匠のギャグは、自虐的であると同時に、こうした落語家の覚悟が表れていて一種の爽快さが感じられます。イマドキの思い上がった「お笑い芸人サマ」達には、到底至り得ない境地です。

 ワタシは、オレの笑いで笑わせてやるという思い上がった「お笑い芸人サマ」が大嫌いです。時々いますよね、巨匠ぶった漫才崩れ。まー、誰とは言わないけど、某○本人志とかね。~o~;;

 落語家でも、思い上がったヤツほど芸はセコくなります。某円楽サンとか某談志サンとかですね。

 閑話休題。「人笑われ」が、最大の恥辱である社会では、人を笑うという感情表現はタブーになるはずです。だって、やたらに人を笑ったら、喧嘩売ってまわってることになっちゃいますからね。

 もしかすると、笑いの消えた教室の謎には、こうした日本の伝統的禁忌の意識が背景にあるのかもしれない・・・などとやたら壮大な話になってしまいそうですが、まあ、ことはそんなに単純じゃないでしょうね。続きは、もし思いついたら明日以降に。~o~

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