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2007年4月 1日 (日)

感情表現欠乏症の研究その三

 以前、「泣ける」という言葉について、本来、自発表現だった「泣ける」が、近年の「泣きたがる人々」によって可能表現として使用されるようになったという話を書きましたが、これも、もしかすると、感情表現欠乏症と関わりがある現象かもしれません。「可笑しくて笑いをこらえるのに必死でした」とアンケートに書き込む受験生は、多分、泣きたいのに泣けず、泣く契機を求めている若者達と同じ位相にいるのでしょう。

 「泣ける」という言葉が可能表現になるのは、本当は泣くという感情表現をしたいのにそれが抑圧された状態にあるからです。では、泣くことは何故抑圧されるのでしょうか。『十訓抄』の編集者は、泣かない西行を賞賛した後、それと対比して「あやしき賎の女」を取り上げ、「もの嘆きたる声、気色は、隣里苦しく、いかで堪へんと聞こゆ」と記していますが、この場合、泣くことを抑圧するのは、「隣里」つまり近くの他者の存在でしょう。

 そもそも、笑うことだって、近くの他者を「人笑われ」にするからこそ禁忌となるのであって、他者が近くにいない所で、泣こうと笑おうとそれは禁忌になるはずがありません。とすると、感情表現欠乏症の若者達とは、他者との距離を適正に保てていな人達ということになるのかもしれません。

 所謂「泣ける」映画や「泣ける」小説の多くが、見え透いたお涙頂戴モノであることも、こうしたことと関わりがあるのかもしれません。さあ、泣けと言わんばかりのお涙頂戴なら、泣くことによって他者との関係は損なわれないでしょうし、そもそも、他者と泣くという感情表現を共有しやすいです。「みんなで泣けば怖くない」ってことですね。~o~

 「泣ける」映画や「泣ける」本の話が、口コミで異常に拡散していくのも、もしかして、同様の理屈なのでしょうか。つまり、「泣ける」モノって、「泣く」ことによって一種の共同幻想を獲得する装置だから、共同幻想は拡大させたくなる、ま、早い話、一緒に「泣く」人間を増やしといた方がより安心して泣ける、ってことなのかしらん。だって、パーソナルな感動だったら、わざわざ他人に広めなくたって良いワケですからねえ。他人に広めたくなるのは、共同幻想の拡大を求めるからでしょう。

 てことは、もしかすると、教室での「笑い」の方も、見え透いた「お笑い頂戴」をやっとけば大ウケするってことなのかしらん。でも、見え透いたダジャレなんかじゃ冷笑を浴びるだけだしねえ。そのあたりは、まだまだ研究の余地があるのかもしれません。

 などと、考えてる暇があったら、原稿書けよっ!>オレ。~o~;;;

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