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2007年5月14日 (月)

日本酒の思想、思想の日本酒

 今日は昼間八王子の校舎で授業、夜は吉祥寺で授業でした。吉祥寺の仕事の後、居酒屋「時代屋」で夕食。神奈川県小田原の酒「火牛」特別純米をいただいてきました。

 神奈川は昔、地酒の不毛地帯で、ろくな酒が無かったのですが、ここのところ、随分と頑張っています。海老名の「いずみ橋」、相川町の「蓬莱」、そして小田原の「火牛」と、ワタシゃここんとこ立て続けに神奈川の酒にヤラれてます。

 小田原なんてワタシの出身地なんで、よーく知ってるはずなんです。小田原市入生田なんてところにゃろくな酒は出来なかったはずなのに、どーしちゃったんでしょうね。~o~;;;

 現在の酒造りは、米も酵母も他所から持ってこれますし、温度管理も完全にコントロール出来ますから、地元で必要なのは水だけ。どこでもやる気になりさえすれば良い酒が出来るワケです。しかも、酒とはこうあるべきだ、こういう酒が作りたいのだという思想があれば、ほぼその通りのものが出来る技術が広まっています。要は蔵元さんのやる気と思想次第ってこと。

 例えば、八海醸造さんは、先代の蔵元さんが大酒飲みで、先代の杜氏高浜さんに命じて、飲み飽きないキレイな酒を造らせたのだそうで、それが結果的に端麗辛口の現在の酒になったとのこと。高浜さんの著書『杜氏千年の技』には、そのあたりのことが詳しく書かれています。高浜さんによると、決して辛口の酒を造れとは言われなかったとか。飲み飽きないキレイな酒を造ろうというのが、銘酒「八海山」の思想だったんです。

 だから、ハッキリ言って、「八海山」のような端麗辛口の酒をありがたがって少量だけ味わうというのは笑止千万なんです。だって、折角、たくさん飲むためにキレイな酒を造ったんだから。それは恐らく、「八海山」で一番高価な純米大吟醸でも同じでしょう。

 八海醸造の蔵元さん主催の宴席では、非売品の純米大吟醸が大量に振舞われます。冷、常温、ぬる燗と様々な飲み方で。これは、純米大吟醸を軽く扱っているのではありません。大吟醸は恐ろしく手のかかる酒です。酒造全体が誠心誠意、神経を使って造った酒です。だからこそ、そこに篭められた思想を生かして、蔵元を訪ねて来たお客さんを全力でもてなそうとしてくれるのだと思います。

 そんな蔵元の思想を踏みにじるダニの行為は、だからこそ許されないんです。

 閑話休題。前述の神奈川の三つの蔵は、いずれも思想を持っています。こういう酒を造ろうという蔵元の意思が感じられる酒です。だからこそ美味いし飲んで楽しいんです。

 「火牛」は、箱根山系の水を生かして、飲み口の良いサラッとした上品な甘さの酒を造ろうとしているのだと思います。まるで広島あたりのような。あるいは、近隣の静岡県東部の酒のような。もしかして杜氏が南部系の人なのかもしれません。静岡の「開運」「正雪」「初亀」あたりに近いものを感じます。静かに少量を味わうべき酒と言えます。食前酒に良いかもしれません。

 一方「蓬莱」は最近の流行である高酸度の酒。キレを重視して料理に負けない酒を目指しているように感じます。土佐あたりの酒に近いものがありますが、それをさらにもう一歩進めた感じ。石川県の「遊穂」、あるいは島根県の「日置桜」、それに例の岩手県の「よ右衛門」もこの仲間ですね。石川県「天狗舞」の車多酒造が造った新ブランド「五凛」なんかは、この系列の典型かも。これらは料理と合わせて本領を発揮するものと思います。

 これら思想を持った日本酒には、それなりの対応をしてあげないと蔵元さんが気の毒です。珍しいからありがたがるのではなく、その酒に篭められた蔵元の思想を生かす飲み方をしてあげたいものです。

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