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2007年9月 1日 (土)

晴明至らず、アイデア出でず、我已んぬるかな

 今日は一日、晴明の降臨を待ったのですが、天文博士安倍晴明殿は姿を見せませんでした。仕方ないので、雑用とその他のデスクワークで一日を過ごしました。んまあ、早い話、本命の仕事に取り掛からず逃避してたと・・・。~o~;;;

 この安倍晴明という人、某夢枕獏という作家さんの『陰陽師』という作品で有名になり、漫画にも映画にもなった人なので、高校生に対する興味付けのネタとして使えそうだと当りをつけたのですが、果たして上手くいくかどうか。もしかすると、獏さんの『陰陽師』に晴明の親友として出てくる源博雅を狂言回しとして登場させた方が上手く行くかしらん。

 実はNZでは、この小説『陰陽師』を資料として読んでいたのですが、こういう作家さんが古典を題材にする時の何時もの習いとは言え、最初はデタラメ多いですねえ。古典の教師が読んでいると、どうしてもディテイルの部分で歯がゆい思いをしてしまいます。

 例えば、小説の最初の頃、博雅はどういうわけか身分の高くない武士ってことになっているのですが、この人、ホントは醍醐天皇の孫で三位という高位まで上る公卿なんですよね。また、晴明の逸話の元ネタとして、『今昔物語集』の名前を頻繁に出すのですが、最初の頃は、この本の名前を『今昔物語』と呼んではばからない。『今昔物語』ってのは、現在では一般に使われている呼称だけど、実は、江戸時代に行われた略称で、正式には『集』を付けなきゃ絶対マズイんです。

 こういうディテイルの誤りは、ある時点から修正されます。多分、作品が世に出て著名になるにつれて、読者から指摘を受けるのか、それともご本人が次回作の構想を練る中で勉強して気づくのか、ちょっと判りませんが、作品の途中から修正されていきます。

 こういうのって、例えば、『源氏物語』の漫画化として有名な大和和紀さんの『あさきゆめみし』なんかでも同様です。『あさき・・』も第一巻は、ほぼデタラメなんですが、途中から原作に忠実になります。

 やっぱり、作家さんでも漫画家さんでも、最初は自分の自由なイマジネーションの広がりに任せて書きなぐっちゃうんでしょうね。それが途中から勉強して、こりゃマズカッタってことになって原典の世界に忠実になっていくんでしょう。獏さんの場合も、最初はイマジネーション任せの話が多いんだけど、途中から、説話に元ネタのある話が多くなっていきます。古典の教師が読んでいて、ああこの話はアレが元ネタだな、と微笑ましくなるような作品が増えていくんですよね。

 そのあたりのことも、出来れば学習雑誌の原稿に盛り込んでみたいんだけど・・・、ちょっと盛り沢山になり過ぎるかなぁ。うーむぅぅ・・・。

 などと悩んでいる暇はなく、明日明後日のうちには書いちまわないと、今度こそ編集者許してくんないよなぁ。~o~;;;;

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