受験勉強迷信俗信のいろいろ
今日は横浜で某W大と某J大受験のための特別授業でした。某W大と某J大の今年も問題を三時間で二問も解いてきました。ちょっと疲れたかも。
受講している子達は、この季節にこんな特別授業を取るような子ですからマジメな子がそろっています。んで、授業終了してから質問の嵐。まあ、マジメでレベルの高い質問が多かったので、こういうのはさほどストレスにはなりません。そんな中、ちょっと気になる質問が。
たまたま二人も同じ質問が続きました。曰く、
「今、教わってる先生に『単語集なんて使わずに教科書に出てきた単語をチェックして覚えていけば良い。単語集なんかに頼ってたらダメだ』と指導されましたが、過去問を解いていると語彙が足りないような気がします。どうしたら良いでしょう」
んんー、そりゃある意味当たり前だよなぁ。だって、高校の教科書にしろ予備校のテキストにしろ、単語レベルまで漏れがないようにチェックして作ってるわけないし、受験生が読む古文の量なんて知れたものだから、出てくる単語には限りがあるし・・・。教科書に出てきた単語を自分で辞書で引いて勉強していくってのは、ある意味、王道の勉強法なんだけど、それだけでは、どうしても重要単語の漏れがたくさん出てくるに決まってるんだよねー。
単語集に頼って暗記一本槍、ってのもマズイのですが、だからと言って単語集が諸悪の根源であるかのように指導するってのは、ちょっとどうなんでしょう。少なくとも、ある程度学習を済ませた子供が、単語集で自分の語彙に漏れがないかチェックするのは、絶対必要なことだと思うのですが・・・。単語集害悪論は、身勝手な理想主義の教師が作り出した幻想でしょうねえ。
この手の迷信俗信って、受験界にはいろいろあります。例えば、
・本番では辞書を使えないのだから、普段から辞書を使わずにテキストの予習をしろ。
→ある程度、語彙の出来ている子には有効でしょうが、語彙のない子にこれをやらせてもデタラメな想像を繰り返すだけです。意味ないと思うんですけどねえ。ある程度のレベルまでは辞書を引くことで様々なことを学べるはず。辞書に出てくる訳語を使って訳を組み立てるのって案外難しいので、訳の技術を磨くことにもなるのですが・・・。辞書を使わずに訳すのは、自由で勝手な訳が出来るので、想像力のたくましい子には楽をさせることにもなります。楽をさせても技術は身につきません。想像力のたくましくない子は・・・、何にも書けないので本人が苦しいだけです。カワイソ。~o~;;
・読書百篇、意自ずから通ずという。何遍も声を出して朗読してみろ。
→これも不思議な迷信です。朗読だけしたって判らないものは判りません。特に今のKYな子達は、百篇くらいの朗読じゃ全く「意通じ」ないと思うゾ。そもそも古文の場合、朗読だってある程度の力がなかったら出来ません。まったく力の無い子に朗読させてもデタラメなアホダラ経を唱えるだけなんですけどねえ。ムダな努力で子供を苦しませるだけです。これまたカワイソー。~o~;;;;
・古文は暗記教科だ。文法書を隅から隅まで暗記しろ。
→何をかいわんやです。文法書なんてのは、利用出来るところを利用すれば良いだけのこと。子供達は文法の専門家になろうとしているのではないのでねえ。教師が無能だと、このテの暗記強要に走るんですよね。子供がカワイソ過ぎ。~o~;;;;;
まあ、まだまだあると思うけど、この辺でヤメときます。簡単にまとめてしまえば、普通に平凡に文章を訳し、問題を解く努力を続けさせることが一番正しいはずです。でも、普通に平凡に努力を続けるってのは、受験生にとっては精神的に苦しいことなので、ついヘンテコな迷信に取り付かれちゃったりするんでしょうね。また、それを利用してもっともらしい迷信を吹き込む教師が世の中にはいるんデスヨ。ヤですねへ・・・。~_~;;;
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コメント
今の子はKYなんですか?
投稿: ペタジーニ | 2014年9月22日 (月) 17時20分
書き込みありがとうございます。
ここでいう「KY」は、前日の「KY文化の落日」という記事からの流れで書いてしまったもので、一般的な「KY」というよりは、「行間から文脈を読む読解力の欠如」と言い換えた方が良かったかもしれません。
投稿: Mumyo | 2014年9月22日 (月) 17時51分