遠く焦がれる文化
先日、友人S氏がブログで、「実は・・・間違えて音読していたコトバランキング」というのを紹介してくれました。ナルホドねと思わせる反面、ちょっと気になることもありました。
確かに「間髪をいれず」「野に下る」などは、「かんはつ」「やにくだる」と読むのが正しいという感覚はあります(PCも「かんぱつ」で変換するのにはちょっと笑いました ~o~)。しかし、一位になった「いそんしん」とか八位の「ありうる」なんてのは、どうなんでしょうねえ・・・。
「依存心」のように音の清濁の問題は、時代によって変化したりするのは普通なんじゃないでしょうか。もし、古い読みが全て正しい読みだというのなら、「前世」は「ぜんぜ」じゃなきゃいけないということになるんでしょうか。清濁以外でも、時代によって読みが移るのは普通です。古い方が正しいってんなら、「御乳母」を「おおんめのと」と読みますか?~o~;;;
言葉の正しさなんて、その時代のマジョリティがどちらを支持するかで決まるんじゃないでしょうか。「依存心」を現代の100%の人が「いぞんしん」と読んでいるなら、それは、現代における正しい読みということになるんじゃないかと思うんですよね。
「有り得る」の場合は、もっと変です。だって、「得る」を下二段活用させる人間なんて現代では皆無でしょう。「ありえる」が現代語としては正しいはずなのであって、「ありうる」は古い間違った読みって言わなきゃオカシイんじゃないでしょうか。
これが英語だったら、恐らく、「そんな表現、英語圏ではもう誰も使わない」とか「そんな言い方は古い間違った表現だ」と言い出す人が必ずいるはずですし、皆、それで納得するでしょう。何故、日本語だとそうならないのでしょう。
思うに、日本文化って、「ムカシ」に焦がれる文化なんじゃないでしょうか。末法思想なんかの影響もあるでしょうし、王朝文化に対する懐古趣味もあるでしょうけど、それ以前から古代は「聖帝の御代」だったり「上つ世」だったりするわけです。物語説話の類の発想にも、根源的な所に「ムカシ」に対する焦がれがあります。
「誤った現代」の対極に幻想される「正しい古代」を、何時でも日本人は抱え込んできたんじゃなかろうかと思うんです。
そうして恐らく、我々の世の中の対極の「正しさ」は、時間軸上に存在するだけでなく、空間的にも存在します。我々は、常に、海外に対してリスペクトを抱き、海外の評価を気にする民族です。映画監督でもスポーツ選手でも文学でも漫画でも音楽でも、あらゆる文化的現象が海外を基準に評価されます。海外で高く評価されるものが本物で、海外で評価されないものは、マガイ物ということになります。
自分自身の価値観を誤り劣っていると認識し、正しく優れた他者に対して遠い焦がれを抱き続ける、それが我々の文化の本質なのではないか、などと、ランキングの話が超大袈裟な妄想に肥大してしまった夜なのでした。~o~
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