ひらがなをつかわせたがるひとたちのこと
今日は授業のない日なので、自宅でノンビリ。本当は丸沼に行きたかったのですが、明日のことを思うと仕方ありません。
もちろん、ノンビリと言ってもやることがないわけではなく、原稿の校正をしていました。校正と言うより、ワタシの書いた原稿に監修の先生がご意見をくださっていたので、それに沿っての手直しです。
その作業中にちょっと気になったことがあります。ワタシが「頻繁に用いられた」という意味で「良く用いられた」と書いた所に、「『良く』を平仮名にせよ」という監修意見が付いていました。この監修の先生のおっしゃりたいことは判ります。この「良く」は、「良」という漢字本来が持っているgoodの意味ではないので、「良」という漢字は不適切だということなのです。
これに類することで形式名詞を平仮名にせよというのがあります。例えば、「読んだことがある」という時の「こと」は、本来の「事」の字の意味する「物事」「事情」「事件」といった名詞としての実態がなく、常にその意義を限定する語を受けてだけ用いられる用法なので平仮名表記しろというわけです。「こと」以外には、「とき」「もの」「ひと」「ところ」なども、同様のことを言ったりします。「雨が降ったときは中止」なんて感じですね。
また、古文の場合だと、動詞は漢字表記して良いが補助動詞は平仮名書きせよという人もいます。つまり、「お与えになる」と言う意味の「大納言、衣を給ふ」などという場合の「給ふ」は漢字で良いけど、「大納言、読み給ふ」という時の「たまふ」は平仮名書きせよというのです。
これらの考え方は、恐らく、和語に漢字を当てる場合、その漢字の本来の意味ではない時は、その漢字を当てはいけないということなんだろうと思います。つまり、「衣を給ふ」という時は、「給」の字が本来持っている「物を与える」意味だから良いけれど、「読み給ふ」という時は、「物を与える」意味がなく、純然たる当て字なので平仮名にしろというわけです。
これらの考え方、理屈としては判るんだけど、どうもワタシとしては釈然としません。まず、こういう考え方に歴史的バックボーンはありません。歴史的伝統的にそのような表記がキチンとなされてきたなどということはないはずです。古代人は、かなり漢字表記についていい加減ですから。多分、現代の国語学者の誰かが言い始めたことではないでしょうか。
加えて、論理的整合性を得ることが困難です。その漢字本来の意味以外の場合、漢字を使えないとなったら、いわゆる漢字熟語のかなりのものが漢字表記出来なくなるはずです。また逆に、漢字本来の意味だったら漢字表記にするというのも徹底しきれるはずがありません。早い話が、動詞として用いられている「昔、男ありけり」の「あり」を必ず漢字表記するかと言えばそんなことはなく、補助動詞として用いられている「花にぞありける」の「あり」と表記の上で完全に区別するなどということは、到底徹底出来る話ではありません。
さらに、これらの表記の区別をするのが一般的にはかなり難解であり、こんなものをルールとして認めた日には、ルールに適った「正しい」日本語を書けるのは、ごく一握りの文法エリートだけになってしまいます。ただでさえ国語表現の苦手な小中学生や日本語学習中の外国の方などは、全く作文不能になります。
さらにさらに、このようなルールが徹底出来たとして、それで日本語が判りやすくなるかと言えば、全くそんなことはなく、平仮名表記の多くなった日本語は、判読が困難になります。そもそも、日本語は、国際的に見ても音韻の数が少なく、同音異義語が非常に多く発生する言語です。現在の漢字仮名混じり表記は、その欠点を補うものであり、もし、平仮名ばかりになったら、どこでたんごがきれるやらどこでぶんせつがきれるやら、まるでいみのわからないりかいふのうのひょうきになってしまいます。こんなにほんごはよみにくくてしょうがないでしょう。もうやめましょう。~o~;;;
要するに、衒学的国語学者や一部のぺダンチックなインテリが考えた独りよがりのルールに過ぎないんじゃないかと思います。そりゃご自分がこのルールを守って一人でヨガッテる分にはかまわないんですが、他人に押し付けないでもらいたいもんです。言葉は、学者の考えた机上の規則や理論のためにあるのではありません。人と人とのコミュニケーションのためにあるのです。コミュニケーションが正しく行われる限り、その言葉その表記は正しいのです。
例えて言えば、通人気取りが勝手に、「夏は麦100%のビールを飲むのが正しく、冬は純米酒の熱燗を飲むのが正しい」なんてルールを決めて酒を飲むようなものでしょう。酒なんて美味くて気持ち良けりゃそれで良いんです。そんな杓子定規で勝手なルールを守るために酒を飲むのなんて真っ平御免ってぇもんだいっ。~o~
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