いつ夏鹿毛になるっての?
ここんとこ三日ほど、自分の作った教材で単語を覚える講座を繰り返しやっています。今やっているあざみ野の校舎で三回目。自分の作った教材だし、例年やってるってこともあり、予習もいらないし、楽な授業をさせてもらっています。
ということもあって、あまりブログに書くこともなく、更新をサボっていたのですが(と言い訳~o~;;;)、今日は久々に古文ネタ。
最近、授業をやっていてちょっと気になることがありました。『俊頼髄脳』に載る源重之の連歌のエピソードで、
雪ふればあしげに見える生駒山
という重之の前句に対して「かうぶんた」という侍が、
いつ夏かげにならむとすらむ
という付け句を付けるという話。
この連歌は、重之の句中の「葦毛(白い毛に褐色の毛が混じる馬の毛並み)」「生駒山」という語に対して、「かげ」に「夏影(夏の姿)」と「鹿毛(茶褐色の馬の毛並み)」を掛ける掛詞により、「葦毛・生駒山・鹿毛」という縁語を完成させるところが面白みなのですが、ウチの教材のこの句の訳に、
いつになったら夏の姿になって、鹿毛の馬のようになることだろうか。
と出ていてビックリしてしまいました。生駒山は夏になっても「鹿毛(茶褐色)」には成らんだろー。それとも、生駒山は、茶色のハゲ山だとでも言うのかしらん。~o~;;
テキスト作成者に訂正を申し入れようとして、「日本古典文学全集」の『俊頼髄脳』の注釈を見て、二度ビックリ。
一体、いつ夏陰-夏鹿毛-になろうとするのだろうか。
なんて訳が出てる。犯人はコイツかぁー。~o~
このように、縁語を構成するための掛詞の両義をむやみに訳すと支離滅裂なことになります。例えば、有名な『伊勢物語』東下りの歌、
唐衣着つつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ
を、某有名講師Aの和歌の参考書なんかだと、
着ているうちによれよれになってしまった着物の褄だから、糊を張る張る着る旅であるよ。そのような長旅だから、慣れ親しんだ妻が都にいるので遥遥と遠く来てしまった旅のつらさを思うことだ。
なんて訳しているけど、これでは当然、訳の前半が支離滅裂なわけで(なんで、旅に出てるのに着物の洗い張りなんて頻繁に出来るんだー)、おまけに、「そのような長旅だから」などといい加減な内容を無理に補って前半後半をつないでいます。ハッキリ言って錯乱した訳です。
こんなのは、「唐衣着つつ」を序詞と考えて、
唐衣を着続けて萎れるではないが、慣れ親しんだ妻が都にいるので、遥遥と遠く来てしまった旅をつらく思うことだ。
と訳しておけばスッキリ判りやすくなります。この類のことって和歌関係の注釈書、参考書だと結構よくあります。掛詞だからってむやみに両方訳せば良いってモンじゃないんですけどねえ・・・。~o~
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コメント
「~着物の褄だから、糊を張る張る着る旅であるよ。」に笑ってしまいました。ものすごいこじつけ(?)ですね。
おそらく、その本の著者は、高校の教科書さえ教えられないでしょう。あきれたものです。
投稿: ノア | 2010年1月24日 (日) 05時52分
書き込みありがとうございます。
まったく、おっしゃる通りなのですが、
この人が高校の文法副教材を書いてしまっている(しかも、それを採用する高校がたくさんある)ってところが、困ったところなんです。~o~;;;;
投稿: Mumyo | 2010年1月24日 (日) 06時19分