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2010年3月18日 (木)

間違ってなければ○

 ここのところ、このブログの検索フレーズ上位に必ず「古文研究法」がランクされています。今週も、ちょっと「お留守番」で昼間ヒマなので、検索をたどってネット上の「古文研究法」の評判を見てみたのですが、うーーーむ、どーなんだろ。

 ワタシ自身も、この本について論評を加えましたが、その記事を読んでもらえば判る通り、ワタシゃ別にこの本を絶賛するつもりも、ましてや推薦するつもりもありません。ただ、小西先生が立派な方だったということを言いたいだけなんです。でも、ネット上では、たいていこの本自体が絶賛されてますねえ・・・。

 正直なところ、今どきの受験生が勉強するなら、この本以上に有効な本はいくらでもあります。つか、この本は説明が古めかし過ぎて有効性が疑わしい場合もあります。しかも、こんなボリュームの参考書、今どき高校生に使いこなせるわけないです。

 では、この本を使ってはいけないと指導するかというとそんなこともありません。古文の参考書は、一部の「買ってはいけない」本を除けば悪書はなく、使ってもマイナスにはならないと思うからです。その生徒さんに対する向き不向きや個人的な好みはあるでしょうけど。

 実際、文法なんて、本質的な誤りさえなければどう説明したって読解に支障はないはずです。「買ってはいけない」の方達の本は、そのヤバい一線を越えているからマズいわけです。

 それはちょうど、スキーのレッスンやコーチでも同じこと。よほど本質的な誤りでない限り、その方法論を実行して下手になるということはありません。どんなメソッドでもトレーニング法でも滑れば滑っただけ上手くなるはず。もちろん、個人により上手くなるスピード、効率の違いはあるでしょうけど。

 結局、バラバラ雪やコブやポールセットや様々な板が良い先生になったりするワケです。ようは様々なシチュエーションを滑るってことが何よりの上達法なんじゃないかと思います。

 古文の学習法も似たようなもので、基本的な文法学習を済ませたら、自分でたくさん読む、解くってことの方が大事なんです。様々な作品、文章、問題が先生になってくれるはず。もちろん、自分で読み解いた後、きちんと正しく解説してもらう必要はありますが・・・。

 そう思うので、ウチの生徒さんに参考書を推薦しろと言われると、「『買ってはいけない本』以外ならどれでも良いから、本屋さんで自分が気に入ったのを一冊選びなさい」なんて言ってしまいます。先輩のT先生の口癖ではありませんが、「間違ってなければマル」。~o~

 でも、こういうのって、きっと生徒さんにはイマイチ不評なんですよね。~o~;;;;;

 同業者の方の中には、自分が自信をもって薦められる参考書以外は生徒さんに薦めないという方もいらっしゃるようですが、そんなこと言ったら、自分で書いた本以外薦められないことになるけど、オレの書いた参考書、もうとっくに絶版だもんね~。~o~;;;;;

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コメント

中古文を独りで読んでいる私にとって、座右の書です。辞書のように使っています。先生は「古典の正しい理解を身につけるところまで行ってほしい」から書いたと言っています。そのとおりだと思います。
学者が、初心者に向けて、自分自身で、しっかりした内容で書いた本はあまりありません。復刊された「古文の読解」と共に先生の「難しいことをわかりやすく」真摯に説明することが受けているのではないでしょうか。
「まちがっていなければマル」。判るような気がします。定説がなく、解釈も作品の成立年代もはっきりしないことがよくあります。確かな答えは「はっきりしない」ことなのですが、「定説」「決まった年代」が覚えるために必要な人には、理解しにくいようです。全て多種多様とわかるようになるには社会経験が必要なのでしょうか。

投稿: 侘助 | 2010年3月19日 (金) 15時27分

書き込みありがとうございます。

 お気を悪くされていたら申し訳ないのですが、この記事は、決して侘助さんの座右の書を貶めようとしているわけではありません。あくまで現代の受験生を対象とした議論であることをご理解ください。

 もともと受験生には限られた時間しかありませんから、ある程度の効率が求められます。しかも、彼らは、我々の世代から見ると、驚くほど国語力(古文解釈というレベルではなく)を持っていません。

 くわえて、「ゆとり教育」という悪環境で育てられた現代の若者の大多数には、努力を継続する根気も真実を究めようという探求心も希薄です。

 侘助さんのおっしゃる「定説」云々というレベルの話ではないのです。国語力も根気も無い人間に、効率良く古文の読解力をつけさせるにはどうしたら良いか、それを現代の古文教師はテーマとしているのです。

 小西先生の御本がそのようなテーマで書かれているものとは、まさか侘助さんもお思いにならないでしょう。現代の受験生は小西先生の想定された若者とは異なるのです。小西先生だって、現代の「ゆとり」の若者の実相を知っていたら、「古文研究法」とは全く異なった本を執筆なさったに違いありません。

 そういう意味で、「古文研究法」は、侘助さんのような方にこそ相応しいものと言えます。国語力も根気も時間も無い現代の受験生には、もっと有効な参考書があるということをワタシは言いたいのです。

 ただし、記事にもあるように、「古文研究法」を使いたいという子供が現れた場合、その意思を完全に否定するつもりもありません。一応、他の本を紹介しますが、どうしても使いたいというのなら根気と国語力が普通以上にあることを前提に、「使ってみて判らないことがあったら、聞きに来なさい」と言うばかりです。何故なら、「間違っていなければマル」がワタシの基本的なスタンスだからです。

投稿: Mumyo | 2010年3月20日 (土) 02時02分

応答ありがとうございます。
むみゃうさんの小西先生に対する過去のコメントを読んでいますので、全然気にしていません。
確かに、古文に興味がある生徒はほとんどいないと思います。しかし、2009年2月6日付けで書かれたように、教え子の中から古典文学専攻の院生がでてきているではありませんか。私は、そういう人が必ずいると期待しているのです。
スキーと日本酒で気分転換し、内弟子の協力を得、講義を続けていれば、後を継ぐものが必ずいます。期待しながら講義をしてください。

投稿: 侘助 | 2010年3月20日 (土) 17時20分

 ありがとうございます。
実は僕も期待しています。

 正直言って、この仕事を始めた時は糊口を凌ぐ道でしかなかったのですが、今は、生徒さんに古典の世界の面白さを伝えることが一つの生き甲斐になっているかもしれません。

投稿: Mumyo | 2010年3月24日 (水) 16時45分

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