姫君は何を知らずと詠うのか
久々の古典ネタです。最近、ウチの高二生向け教材で気になっている和歌があります。『住吉物語』の住吉の姫君が、行方知れずとなって後、恋人の中将の夢に現れて詠む歌なのですが、
わたつ海のそことも知らずわびぬれば すみよしとこそあまは言ひけれ
中将の「おはしまし所、知らせさせ給へ」という問いに対する答えなので、従来、現在の自分の居所について、「其処」とも判らないと答えていると取り、こんな訳をつけてきました。
「海の底とも、どことも知らぬ所で、住みわびている私のまわりで、漁師たちは住み良しと申しますが。」(岩波「新日本古典文学大系」稲賀敬二校注)
「そこ」に「底」と「其処」、「すみよし」に「住み良し」と「住吉」が掛かっているととるわけです。しかし、この訳はどう考えても筋が通りません。
まず、文法的に無理があります。「そことも知らず」を「どことも知らぬ所で」と訳すのは、活用形というものを全く無視していますし、「わびぬれば」を「住みわびている私のまわりで」などと訳せる道理がありません。ここは、どうしても、「どことも知らず困ってしまったところ」ぐらいに訳さねばならないところ。
しかも、何故、「漁師たち(「あま」は「海人」と書いて「漁師」の意味を持つ語)が「住み良し」などと言い出すのか、全く筋が通りません。
このため、ウチの教材についた訳にも、「ここまでの部分は言葉通りの訳を一応つけたものだが、実質的な意味はないので訳にとらわれなくてよい」などと言い訳が付いたりしています。
しっかし、苦しい、つか、無茶苦茶な言い訳です。自分で訳しておいて、訳に実質的な意味がないなんて、そんな無責任な言い訳しちゃイカンでしょー。これじゃ、和歌というものは、きちんと訳したって理解できないワケの判らないものだから、勘で処理しなさいと生徒に勧めているようなものです。こんなこと言わなきゃならないなら、教材に使わなきゃ良いのに・・・。
まー、でも、こんな言い訳をしたくなる気持ちはわかります。「新大系」の訳に従う限り、何を言ってるのか判らない歌ということになります。わけの判らないことを言って、ただ単に「住吉」という地名を織り込んだだけと取らざるをえなくなります。
ワタシも授業をしなければならず、大変困りました。授業開始ギリギリまで悩んでなお明確な解釈を得ず、見切り発車で授業を始めたのですが・・・。窮すれば通ずとはよく言ったもので、困り果てて授業に臨んだはずなのに、ちゃんと授業中に説明を思いついてしまいました。偶然というかまぐれ当たりというか、行き当たりばったり結果オーライ。まー、ワタシの授業なんてこんなモンよ。~o~;;;
姫君が現在の自分の居所について「そことも知らず」と答えていると取ってしまうからいけないんです。実はこの姫君は、継母にいじめられ、実母の乳母であった住吉の尼を頼って住吉へ下ったのですが、その経緯を答えたのだと解してしまえば、おのずから解釈は定まります。
「海の底へ身を沈めるか、それともどこに居るべきなのか判らず困ってしまったところ、住吉が住み良いと、海人ならぬ尼が言ってくれたのでした」くらいで訳しておけば筋が通ります。
つまり、現在の自分の居場所を「知らず」と言っているのではなく、自分のいるべき場所が判らなかったと解しておけば簡単な歌でした。この姫君は継子いじめにあって居所をなくして住吉に下った人なので、ごく自然な解釈だと思います。でも、コレってきっと新説ですよね~。~o~
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コメント
歌の解釈は、国文学者より、歌人のほうが味がある解釈をしますね。
住吉って、海に面した景勝地ですよね。拙訳では、「そこが海辺の景勝地とも知らないで、つらい思いをしていると、住吉こそは住みよいところですよと、あま(尼・海人)たちは、言ってくれたよねえ」となります。
投稿: 侘助 | 2010年6月10日 (木) 17時04分
多分、小西先生なら、
「侘助君の訳は優等生の訳だが、満点はあげられない」とおっしゃるところでしょう。~o~
単独の和歌の訳としてなら、御説でも良いのですが、物語の中の和歌は、独立した詩歌ではないのですから、常に物語の文脈の中で処理しなければなりません。そこがちょっと物足りないかと。
投稿: Mumyo | 2010年6月11日 (金) 08時23分
「物語の文脈の中での処理」。森があっての木ですよね。ありがとうございます。参考になります。
投稿: 侘助 | 2010年6月11日 (金) 16時30分