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2012年10月 7日 (日)

注釈書への疑問その三~西行を巡る○と点

 久々に古典文学ネタです。今年のH政大学の赤本をチェックしていて気になったことがあります。実は、以前からウチのテキストにも使われていた文章で、出て来るたびに気になっていました。

 『十訓抄』「可堪忍于諸事事」の四。西行法師の逸話です。俗人であった時の西行が、可愛がっていた娘が危篤状態であるにも関わらず、弓の遊びに誘われて心ならずもそれに加わっていた時のこと。西行の郎等が走ってきて、西行に何かを知らせるのですが、西行は事情を知る西住法師にだけ娘の死を告げ、何事もなかったかのように振る舞うという話です。その本文は、H政大2/7実施問題では次のようになっています。

 「郎等男の走りて、耳にものをささやきければ、心知らぬ人は、なにとも思ひいれず。西住法師、いまだ男にて、源次兵衛尉とてありけるに、目を見合はせて、『このことこそすでに』とうちいひて、人にも知らせず、さりげなく、いささかの気色もかはらでゐたりし、ありがたき心なりとぞ、西住、のちに人に語りける」

 この本文、多分、『小学館 新編日本古典文学全集 十訓抄』の本文を使用しているのではないかと思います。ところが、この文章は上記のような本文だと、少し訳しにくい箇所が出てきます。

 「郎等男の走りて、耳にものをささやきければ」は、通常、”郎等男が走ってきて、西行の耳に何かささやいたところ”と訳すところです。つまり、「ささやきければ」が「已然形+ば」なので、順接確定条件で訳すところなのです。

 ところが、日本語では順接確定条件の次の部分の主体は、確定条件句の客体が担う場合が多いのです。理解しやすいように現代語で例を取るなら、「私が彼を殴ったところ、怒った」という表現の「怒った」主体は、確定条件句の客体「彼」になりやすいということ。現代語で言っちゃうと、バカみたいに当たり前ですね。~o~

 とすると、この本文でも、「ささやきければ」に続く部分の述語「なにとも思ひいれず」の主体を、確定条件句の客体「西行」にしたいところなのですが、「心知らぬ人は」が邪魔な感じです。

 それで、ウチのテキストあたりでも、この「ささやきければ」の訳として、”ささやいたけれど”などと「已然形+ば」の訳としては例外的な逆接確定条件の用法として処理してきました。

 また、このH政大入試問題作成者がおそらく利用したであろう『新編日本古典文学全集』でも、この部分の訳に困ったのか、”西行の耳に何事かをささやいた。何も知らない人は、気にも留めなかった」などとセンテンスを切る苦しい訳を行っています。

 しかし、この問題、ちょっと句読点の打ち方を工夫してやると、簡単に解決することなんです。「心知らぬ人は、なにとも思ひいれず」の次の句点(。)を、読点(、)に替えてやるだけで、ウソのように読みやすくなります。読点に替えることで、「ささやきければ」は、「何とも思ひいれず」と「目を見あはせて・・・うちいひて」の両方に掛かっていくように読めるのです。

 つまり、「心知らぬ人は、何とも思ひいれず」の部分の主体を西行に取り、”西行は、心知らぬ人のことは、何とも気に留めず、西住法師がまだ在俗で源次兵衛尉と言っていた者に、目を見あわせて、『このことはすでに』と言って・・・”と訳していくわけです。

 この解釈をする時、ポイントなのは、「心知らぬ人は」の「は」です。係助詞「は」、主体を示しているのではなく、他との区別を表します。この場合なら、「心知らぬ人」と事情を知っている「西住法師」を区別する役割を果たしているということ。

 古典作品は、このように句読点の打ち方で解釈のし易さが変わってきます。句読点は、問題作成者の責任で打たれるわけですから、問題作成者は、受験生が読みやすくなるように配慮して句読点を打たねばならないのですが・・・、H政の出題者さんには、もうちょっと工夫して欲しかったかな。~o~

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コメント

講師が問題を提供してくれるので、そういう見方もあったのかと、改めて読み直ししております。
私が持っているのは、彰考館蔵 十訓抄 第三類本 ですが、内容はほとんど変わりありません。
「耳に物をささやきければ、心しらぬ人は、なにともおもひいれず。」
「ささやいたところが、事情を知らない人は・・・」
でいいのではないのでしょうか。
小西研究法では、「ば」は「ので」だけでは訳しきれないことがある。
 をのこども召せば、蔵人忠隆参りたる(枕冊子)
「呼んだところが」とでも訳すのが適切で、上に述べた事が下に言う事とたまたま同時あるいはひき続いておこる━といったような使いかたである。
これではないでしょうか。

投稿: 侘助 | 2012年10月 8日 (月) 14時55分

>侘助さん
 お久しぶりです。
おっしゃるとおり、この「已然形+ば」は「~したところが」(<偶然条件>と呼びます)で良いと思います。

 「なにとも思ひいれず」の後を読点にする効果は、「ささやきければ」の偶然条件が、「なにとも思ひいれず」だけでなく、「目を合はせて」にも掛かって行き、「心知らぬ人」と「西住法師」の対比が見えやすくなるところにあります。

 読点に修正して「心知らぬ人」と「西住法師」を対比的に扱うと、この部分の訳は、

 郎等男が西行のもとに走ってきて西行の耳に何かささやいたところ、西行は、事情を知らない人のことは、何とも気に留めず、西住法師がまだ在俗で源次兵衛尉と言っていた者に、目を見あわせて、『このことはすでに』と言って…

 となるわけです。ところが、「何とも思ひ入れず」の後を句点にしてしまうと、「何とも思ひいれず」でセンテンスが切れてしまうので、「心知らぬ人」と「西住法師」の対比が見えにくくなって、「心知らぬ人」を主語に取りたくなり、

 郎等男が走ってきて、西行の耳に何かささやいたところ、事情を知らない人は、そのことを何とも気に留めない。
 
 と訳したくなってしまうのではないかということです。

投稿: Mumyo | 2012年10月 8日 (月) 17時55分

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