思いやる難しさ
ここんとこ、ほとんど毎日のように敬語の説明をしています。この敬語というのは、生徒の出身高校によってかなり理解に差が出る分野なので、気を使います。
出身高校によって、というのは、出身高校の偏差値によってということではなく、教わった古文の先生によって変わってくるということ。早い話、「謙譲語は主体を低めて客体を高める」などと教える方がまだいらっしゃるので、油断がならないのです。
現在、古文の敬語を説明するのには、この「低める・高める」という考え方は用いません。尊敬語は主体(動作主)に対する敬意、謙譲語は客体(動作対象)に対する敬意を表すと考えるのが一般的です。ところが、古臭い説明をまだ続けている高校の先生が、時々いらっしゃるわけで・・・。
そうなると、生徒の理解が全く違ってきます。我々が説明するのにもその辺りに配慮した説明をせねばなりません。高校できちんとした説明を受けてきた子には敬語なんて簡単だよねという気持ちが伝わるように、高校で古い説明を聞いて判らなくなっている子には、本当は簡単なんだ、判らないのは君達のせいじゃないんだぞ、と伝わるように。
それをクラスのレベルや雰囲気に合わせてやらなければなりません。んで時々失敗もあります。先日も、質問に来た子が、敬語なんて簡単だと言われ過ぎて引いてしまったというようなことを言っていました。
聞いている生徒がどう受け取るかを想像しながら言葉を選び、微調整を施すのは、本当に難しいです。この仕事を二十五年もやって、いまだに生徒の気持ちを想像しきれないことがたくさんあります。
もっとも、この想像するということは、何年この仕事をしても出来ない人は出来ないようで、ベテランの方でも、自分の支持者には熱烈に支持されるけれど、そうでない子の満足度が低過ぎると嘆いていたりします。そういう方は、もしかすると、出来ない子や他人の痛みについての想像力が少し欠如しているのかもしれません。
最近の地方自治体首長に続いている失言なども、その類なんでしょうね。NYに行って、ニューヨークタイムズにインタビューされるってことはどういうことなのか、まるで立場を判っていない某都知事の方とか、自分の支持者以外の人間がどう受け取るか、まるで想像していないかのような某関西地方自治体首長の方の暴言とか。
その方の思想信条はさておき、そうした想像力の欠如は、予備校屋ならともかく、公人にはあるまじきことではないかと思わされる昨今なのでした。
| 固定リンク
コメント