久しぶりに古典文学ネタです。
最近、赤本の間違え探しをしていて気になることがありました。筑波大の今年の出題は、『四条宮下野集』だったのですが、その中に、こんな贈答歌が入っています。
(隆綱の中将)
明けてのち積もる雪にもいつしかとわれがくるまを人や待つらむ
返し
(下野)
くるまをば心にかけてしらゆきのそらごと人に今日見つるかな
下野は、隆綱の中将と雪見に行く約束をします。雪が降ったら迎えの牛車をやると隆綱は約束するのですが、雪の降った日、昼過ぎまで迎えの牛車は来ず、その代わりに「明けてのち」の和歌が送られてくるのです。「明けてのち」の歌は、「車=来る間」の掛詞をふまえて、
”夜が明けて後、積もる雪にも、早く会いたいと私のやって来る牛車をあなたは待っているのだろうか。”
という程度の意味になります。この隆綱の歌は、昨夜契りを結んだ男が女に送る後朝の歌を装って、下野をからかった歌になっています。おそらく、隆綱としては、下野との約束を失念していたことに対するテレ隠しのようなつもりなのでしょう。
それに対する下野の返歌「くるまをば」の歌の現代語訳が、今年の筑波大では出題されています。この設問に対して、赤本執筆者さんは、「車=来る間」「白雪=知ら(ず)」「空=虚言」の掛詞を指摘し、次のような解答を示しています。
”あなたが来るのを待っていたかどうかは分かりませんが、迎えの車がやって来るまでの間、それをずっと心待ちにしていたのに、白雪が空に降っても車は来ませんでした。あなたがうそをつく人とは知らなかったけれど、今日見抜きましたよ。”
コレ、ちょっと見て、いったいどうなっているのかと首をひねりました。確かに、話の筋としては判らないでもないのですが・・・。
この答案はどこが問題点かというと、まず、和歌の中に見えない語をむやみに補っています。加えて、「知らず」を「心にかけて」と「そらごと」の両方につないでしまいます。仮に「白雪=知らず」の掛詞を認めたとしても、「来る間をば心にかけて知らず」を”あなたが来るのをまっていたかどうか分かりませんが”とどうやって訳せるのか、通常の文法に従う限り、そんな訳は成り立つはずがないのに。
この赤本執筆者さんも、他の設問に関しては悪くないので、一応、学力はあるんでしょうが、この和歌の解釈に関しては、悪いけど、全くのデタラメに近いです。察するに、和歌の中なら、多少、文法を無視しても良いと思っているんじゃないんでしょうか。文法通りに解釈しても和歌は判らないからと思っているんじゃないでしょうか。
でも、和歌だって日本語です。決して、デタラメなものではありません。文法に従って解釈してみて、たいていは意味が通じます。この場合も、(仮に赤本執筆者の言う掛詞をそのまま認めたとしても)、意味の通る解釈は可能です。例えば、
”あなたが牛車で迎えに来るまでの間を気にかけていて、あなたの嘘にまったく気づきませんでした。この白雪の降る空ではないが、あなたのそらごとを今日見てしまったことです。”
このくらいで十分でしょう。この解釈のポイントは、「心にかけて(気にかけていて)」と「かけて知らず(まったく気づきませんでした)」を掛詞として扱うことと、「白雪の」を序詞として処理すること。それで、スッキリした訳ができます。
もっとも、「白雪=知ら(ず)」の掛詞は、『岩波書店 新日本古典文学大系』(犬養廉校注)では認めていないので、ちょっとどうかなとは思うのですが・・・。
何にしても、和歌だからと言って、文法を無視する態度は感心しません。これは、この赤本執筆者さんだけではありません。こういう態度の和歌の解釈、実はいろんな所で目につきます。
和歌の解釈においても、まずなるべく文法に忠実な訳を作り、そこから先は修辞法や比喩等を考え合わすことで工夫するという態度が望ましいのではないかと思いました。
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