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2013年12月14日 (土)

始めから丁寧にNG~『Tの古典文法はじめからていねいに』

 「そのうち徹底チェックして記事にしたい」などと書いた手前、やらないわけにもいかず、やってみました。始めから丁寧にNG。

 んで、まず結論なのですが、「マトモな部分が多いし一生懸命なのは判るから、全面的否定は忍びない。しかし、このまま放置すると犠牲者が出る」って感じでしょうか。

 ワタシの参考書に関する基本ポリシーは「間違ってなければ○」。したがってこの本もできるだけ許容したいのですが、このままだとかなり危険な部分を含んでいます。この本を信じきって人生狂わせちゃった犠牲者がきっといるはずです。まあ、ご本人は犠牲者だってことに気付いていないだろうけどね。~o~;;

 なので、特別危険な個所だけを記事にします。では、危険度順に。

・危険度No.1 「らむ」の識別。

 これは調子こいた予備校屋がよくやる誤りなのですが、「らむ」を、この人が言うように「直前の音が何かをチェックするだけで、一瞬で識別」なんてやっていると、次のような例で泣きを見ます。

 <反例>「祭らむ」「つかうまつらむ」「塗らむ」「降らむ」「天がけらむ」「照らむ」「練らむ」「帰らむ」「奉らむ」「はべらむ

 これらは全て、「ラ行四段またはラ変動詞の未然形+助動詞『む』」です。でも、この人の言った通りに識別すると、ウ段音の下の「らむ」は<現在推量>になるし、エ段音の下の「らむ」は「り」+「む」になるってわけです。

 特に、「たてまつらむ」と「はべらむ」は超頻出の形だし、入試的にも文法問題で聞いてみたい形ですが、この人の言った通りにやると、「『たてまつ』しているだろう」「『はべ』したような」などと訳すハメになるってことですネ。~o~ ~O~

・危険度No.2 「が・の」の用法の判断マニュアル① 

 コレ、申し訳ないけど、まるでデタラメです。『夢・雲・露・例』などの語が「『の』の上にあったら、『の』は比喩の用法だということです」と断言しちゃってるけど、反例はとても簡単にみつかります。次のような例が出てきたら、どうしようっていうんでしょう。

 <反例>「夢通ひ路人目よくらむ」「雲あなたは春にやあるらむ」「紫だちたる雲細くたなびきたる」

 いずれも有名な和歌や文章の一部です。入試で使われたっておかしくありません。「夢のような通い路」「雲のようなあちら側」「紫かがった雲のように細くたなびいている」なんて解釈するんでしょうか。誰が考えたって、こんなマニュアル危な過ぎて使えません。

・危険度No.3 「めり・なり」~二つの「なり」

 四段動詞に接続した「なり」を見分けるのに、上の語が、「『耳関係』の動詞(「言ふ・聞く・伝ふ・鳴く」など)だったら、『なり』は『伝聞・推定』」などと上の動詞だけで判断するのはかなり危険。たとえば、『枕草子』「職の御曹司におはしますころ」に、次のような例がある。

 <反例>「なま老いたる女法師の・・・、猿さまにていふなりけり」

 ここは、清少納言が出て行って女法師を見て「猿さまにていふ」と言う判断をしているので、<伝聞・推定>にはならない。そもそも、「なりけり」の「なり」が<断定>というのは、結論が出ていることである。

 また、「『なり』の上の『体言』が場所・地名だったら、『なり』の意味は『断定』でなく『存在』になるんです」というのも危険。これらは、「なりやすい」くらいなら言えるのだが、「・・・です」と断言できることではない。

・危険度No.4 「に」の識別~付属語「に」の識別マニュアル

 この「マニュアル」は、「絶対」と「確実」を「なりやすい」と読み替えてあげれば、なんとか使える。しかし、「絶対」と思い込むと例外が出て来て足元をすくわれる。たとえば、『平家物語』「継信最期」に次のような文がある。

 「黒き馬の太うたくましいに、黄覆輪の鞍置いて、かの僧にたびにけり」

 「たくましい」は、形容詞「たくまし」の連体形のイ音便形。「連体形+に、」の形だが、この「に」は明らかに格助詞。この人の言うことに従えば、「ほぼ確実に接続助詞」にならなければならないのだが・・・。

 ちなみに、今の『平家』の引用は小学館日本古典全集によったが、他の注釈書でもここは「に」の下に「、」を打っているはずである。

・危険度No.5 「る・らる」~「る・らる」の意味を一発で判別する方法

 ここに関しては、すでに11月10日の記事で触れています。

 危険度の高そうなのは、この辺でしょうか。他の部分にもちょこちょこ間違いはありますが、まあ、いちいち指摘しているとキリがないので。

 しかし、なんだって、こんなに「なりやすい」を「絶対」「確実」と言いたがるんでしょう。察するに、私文系の選択式の文法問題は、短い選択肢で判断させねばならないために典型的な形の例文を使いやすく、そのような選択肢であれば、「なりやすい」を「絶対」と言い切っても、解けることが多いんでしょう。この人は、そういう問題をたくさん解説し過ぎて、古文の文章を丁寧に読むということを、あまり授業の中でしてこなかったんではないでしょうか。

 しかし、そういうやり方は、私文系の文法問題では通用しても、文章自体の読解を求めるセンター試験や国公立二次では全く通用しないはず。某T進さんにだって、国公立志望の子はいるんでしょうにねえ。

 最後に思い切り間抜けなNGを一つ。「る・らる」の説明で、現代語「れる」に<可能>の意味があることを説明しようとして、「これで心おきなくそこに行け」を例として出しているけど、「行ける」は可能動詞だぞー。助動詞じゃないぞー。そんなことも判らずに古典文法の本、書いてんのか、コイツっつ。~o~~O~ 

<後日記>

 早速、危険度No.5に、案じていた通り犠牲者が出てしまいました。センターだけに影響デカかったでしょうねえ。

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コメント

 今回の記事、ずっと心待ちにしておりました。この書籍の存在は、前回の記事で初めて知り、さらに同僚が持っていて、かなり絶賛していたので、その後折に触れ読んでおりました。「らむ」の識別に関しては、私も気づいておりまして、とりわけ「はべらむ」をこの先生はどう弁明するのかうかがいたいくらいですが、問題は、同僚もそうなのですが、こういう書籍をありがたく思う教員や受験生が少なからず存在するということです。私自身は、古典は、まずは数多く読むこと、そしてわからない箇所があるたびに辞書を引くことと考え、ずっとそういう信念で教えてきました。また「新明解古典シリーズ」という書物を執筆していて、それは通釈書には珍しく、品詞分解が施されておらず、読んで楽しむことを主眼とした書物であります。ところが、こういう本は売れないのですな。聞くところによると、「古典文法をはじめからていねいに」という本はかなりのベストセラーだそうです。
 この本を貸してくれた同僚は、大学院まで出ている秀才なのですが、「そんな目くじら立てることはないでしょう。何よりわかりやすく書かれているのだから、いい本ですよ」と反論します。「いや、これは間違いだ。例外というのを認めない書き方、つまり絶対になどと書くのは、それこそ絶対に間違いだ」と主張するのですが、「こういうふうに高校の時にわかりやすく説明してくれる先生に教わりたかったなあ」と援護します。「予備校の先生というのは、このように目から鱗が出るような教え方をしてくれるのですねえ」とまでいうのです。ううん、幸か不幸か予備校に通ったことのない私は、予備校の先生がそのように教えているのかはっきりとはわかりませんが、この仕事に就いてから何度か聞く機会に恵まれた予備校の先生の講義は、意外にというか当然というか、むしろ「はじめからていねいに」読んでいくもので、けれん味のない正統的な授業でした。こういう安易な覚え方を伝授するという講義ではありませんでした。
 「完全無欠」とは、それにしてもよくつけたものだなあ。そんなものがあれば誰も苦労しないのにな。

投稿: ニラ爺 | 2013年12月17日 (火) 16時01分

 「絶対」「確実」と言い切るということは、生徒が自分で判断する機会を奪うということです。どんなに力のある生徒でも、信じている先生に「絶対」と言われれば、試験場ではそれに盲従するでしょう。「そうなりやすい」なら、生徒に自分で判断する余地があるのでかまわないと思うのですが。

 こういう教え方が出来る人は、何人かに一人副作用で死ぬかもしれない薬を「大半の人には、飲みやすくて良く効くから」と投与してしまう医者のようなものです。
 確かに、飲みやすくて何人もの患者が完治すれば、その先生の評判もよくなって病院も儲かります。でも、何人かに一人死ぬと判っていて目の前の患者に投与できますか。普通の神経なら出来ないんじゃないでしょうか。

 きっと、同僚の方は、そういう想像力の欠如した方なんでしょう。
 このT先生もあるいはそうなのかもしれません。もしかすると、T先生、ビデオ授業ばかりで直接生徒に接しないのかもしれませんね。ビデオカメラは何を教えようと、人生しくじったりしませんから。

 我々、普通の予備校屋は、いい加減なことを教わった生徒が失敗するのを、目の前で見たりします。このブログでも何回か記事にしたことがあります。たとえば、2006年1月25日と4月13日の記事。
 その二回だけではありません。直前になって「敬語の過去問が解けません」と泣きついてきたヤツに話を聞いたら、某有名講師Aの本を使っていたなどということもありました。最近では2013年4月24日の泣き出した男の子なんてのも。
 こういうの見ちゃうと、無責任に「絶対」「確実」は言えなくなるもんだと思います。少なくとも、普通の予備校講師はそういうものだと信じています。

投稿: Mumyo | 2013年12月17日 (火) 22時53分

窓女から検索してたどり着きました。
結局どのように古文の勉強をすればよいのでしょうか?一通り読んでみましたが参考書など否定されていることしか見つけられませんでした。よろしくお願いします。

投稿: | 2014年2月11日 (火) 09時48分

 まず、質問する時には、名前(ハンドルネームで結構です)を書いてください。何とお呼びしたら良いのか判らないので。
 それから、勉強法の質問をする場合は、自分がどのような立場なのか書いてくれると回答しやすいです。社会人で古文を趣味として学んでいる人や教壇に立って教える立場の人もここにはお見えになります。当然、それらの人と受験生高校生では同じ勉強法になりません。
 また、受験生高校生でも、浪人高3と高1高2では違ってきて当然です。私文系志望者と国公立志望者でも細かい点が多少違うでしょうし、古文の得意不得意でも少し変わってくるでしょう。

 一般的な受験生高校生の勉強法としては、2007.11.3の「受験勉強迷信俗信のいろいろ」などでも触れたことがありますし、2008.6.26の「誤謬と欺瞞の連鎖」でも、「ろくのいち」さんの質問に対して、次のように答えています。
 
「つまるところ、古文の勉強法は、用言の活用・助動詞の接続と活用という二つの基本的文法事項を覚えて、これを利用できるようになったら、あとは、ひたすら自分で古文を読み、古語辞典を引いて訳すことです。我々、古典の教師は、そのためのサポートをしているだけです。
 古文なんて、勉強法は単純なものです。シンプルに考えてください。古文は、積み重ねが大事な教科で、迷わず努力を続ける人が勝つ科目なんです。」

 現在でもワタシの考えは変わっていません。

投稿: Mumyo | 2014年2月11日 (火) 23時23分

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