発見しつつの年末
授業の方は、今年の最終タームに入っています。毎年恒例になった感がありますが、年末のタームは、午前が文章のつまらない高二講座、夜が某W大対策講座です。
「文章がつまらない」とずっと言い続けてきましたが、なんとなくそれにも慣れ、いまや普通にストレスなく授業しています。この講座を取る生徒さんは、何故かみんなマジメで知的好奇心のある子が多いので、それにも助けられてのこととは思うけど。
そんな中、一昨日、夜の某W大対策講座で小さな発見がありました。出典は、『成尋阿闍梨母集』第二巻渡宋するため筑紫にくだった息子成尋との別れを悲しむ母が、成尋を行かせたことを悔やむ場面です。
よろづにつけて恋しく、「などてただいみじき声を出だして泣きまどひても、ひかへとどめ聞こえずなりにけん」と悔しうぞ。「日ごろ、仏に申すは、『いたくな思ひ泣かせ給ひそ』とのたまひししるしに、仏まどひて、出だしやりたてまつりたるなめり」とぞ心憂くおぼゆる。
(さまざまなことにつけて成尋が恋しく、「どうしてひたすらはなはだしい声を出して泣いて取り乱してでも、成尋をお引止め申し上げなかったのだろう」と悔やまれて。「日ごろ、成尋が仏に申し上げることは、『母をそれほど思い悩ませて泣かせてくださるな』とおっしゃっていた霊験で、仏が間違えて、成尋を筑紫に行かせ申し上げたのであるようだ」とつらく思われる。)
この文章は今まで何回かこの教材で使われて授業してきたのですが、この「仏まどひて、出だしやりたてまつりたるなめり」の部分がどうもよく判らず、なんとなく誤魔化してきたのでした。ところが今回、授業中に突然ひらめきました。
「まどひて」の「て」で主体が代わったと考えれば良かったんです。泣きわめいてでも成尋が行こうとするのを引き止めれば良かったのに、それが出来なかった作者が、私が泣きわめくことが出来なかったのは、成尋が仏に「母を泣かせないでくれ」と祈っていた霊験だったのではないかと考え、
「仏まどひて(仏が間違えて)」泣きわめこうとする私を泣かせず、その結果私は成尋を、「出だしやりたてまつりたるなめり(筑紫へ行かせ申し上げたのであるようだ)」と読めば良かったんです。
「て」の前後で主体が交代することは、例外的だけどあり得ないことではありません。だいち、そう読んだ方が敬語法的にも自然です。判ってみれば簡単でした。
この部分、数少ない『成尋阿闍梨母集』の注釈書、講談社学術文庫などでも、「仏が困り果てて(成尋を唐土に)お出しになられたのであろう」などと訳していますが、こんな風に敬語を誤訳するくらいだから、気づかなかったんでしょうね、訳注をつけた宮崎荘平さん。
さて、昼間はそんな発見をしたのですが、夜は夜で発見がありました。静岡県土井酒造の「開運 無濾過純米生」が、んまい!!
神田の和泉屋さんで購入してきました。もともと開運は好きだったのですが、この「無濾過生」は特にんまい。炭酸系の刺激とほのかな甘さのバランスがグッド。最近、神田和泉屋さんでは、山形県酒田酒造さんの「上喜元」をよく購入していて、これも以前から好きなお酒だったのですが、とても品の良い甘旨味のステキな酒です。特に、上喜元は、日本酒の苦手な内弟子Yも気に入っている模様。
老舗神田和泉屋、相変わらず良い仕入れしてるなあ、と今さらの発見でした。~o~
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