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2014年10月 1日 (水)

主語狂想曲に対する考察とごく普通のアドバイス

 今日は本来なら授業のないお休みの日なのですが、先週の電車トラブルで補講があり、どこかへ出かけるわけにもいかないので、自宅でデスクワークです。

 

 んで、さっそく逃避というわけです。~o~;;;

 

 過去のブログ記事を読み返してみたのですが、どうもこの事についてまとまったことを書いたことがなかったようなので、今日は、「主語問題」について書きます。

 

 我々のところには、よく、「文法と単語の勉強は一通り済ませたんだが、主語が判らなくて模試で失敗する」という相談が来ます。ワタシはこれを「主語判らない病」と呼んでいます。

 

 この病人さんに対して、というか、こういう人を狙い撃ちして、有名予備校講師の方達は、いろんな「方法」やら「公式」やら「マニュアル」やらをひねり出し、参考書などにも書いたりします。さらに、それをどこかで学んだ高校の先生方が高校生に教えちゃったりするので、我々のところにもその手のことに関する質問者が毎年のように来ます。

 

 ちょっとした「狂想曲」という趣なのですが、この騒ぎって何だか変だなあとワタシなどは思います。というのは、参考書などに示される「方法」やら「公式」やら「マニュアル」やら「ルール」やらというのを見てると、古文というものを日本語扱いしてないからです。

 

 これら参考書って、「古文とは特殊な言語なので、特殊な『ルール』があり、それを読み解くには特殊な『方法』『公式』『マニュアル』が必要だ」という幻想を作り出していませんか。つか、そういう幻想を利用して商売していませんか。

 

 でも、古文は我々の現代語と全く同じ日本語なんだけどなあ。

 

 古文というのは、日本語のルールに則って書かれています。そして、日本語の主語に関するルールはただ一つ、「言わなくても判る主語は言わない、書かなくても判る主語は書かない」。非常にシンプル!

 

 我々の日常会話を考えてください。そういうルールに従ってコミュニケーションを取ってるでしょう。例えば、お母さんが、「昨日言ったよね」と言った場合、聞いた貴方は、「『言った』の主語が省かれているということは、主語は言わなくても当然判る人に違いない」と推論して、そのような人を頭の中で探し、「私(母)が」という主語を補って理解するはずです。

 

 日本語とはそういう言語なのです。だから、古文で主語が書いていない場合、書かなくても判る人が主語なのだと考えて候補を絞って行かねばなりません。

 

 では、その「書かなくても判る」の理由としては、どんなことが考えられるでしょうか。実に様々なケースが考えられるのですが、そのうちの一つが、接続助詞の働きに関する感覚です。

 

 例えば、「私は、家に帰っ勉強する」と言った時に、「あなたが家に帰るのは判ったけど、勉強するのは誰?」と言い返されることがありますか。ないはずです。それは、接続助詞「て」の前後では主体の交替が起こりにくいということを我々が直観的に知っているからです。

 

 ふくろうさんの高校の先生のルール1はこれを利用したものです。しかし、この「て」の働きは、98%と数値化するとやや危険です。というのは、「自転車が壊れていケガしちゃった」「電車が遅れ遅刻しちゃった」などという文に接した時に、自転車がケガをしたり電車が遅刻したりという勘違いをやらかすからです。~o~

 

 つまり、「て」の前後の主語に関しては、「交替がおこりにくい」くらいに理解しておくのが良いのです。

 

 では、例の「をにがどば」はどうでしょうか。これらは、主に順接確定条件や逆説確定条件を表す語です。現代語では「ので」「のに」に当たる語ですから、それで考えてみればよろしい。

 

 つまり、こういうことです。「母が呼んだので、答えた」と言えば、「答えた」のは母じゃありません。主語の交替が起こったということです。しかし、これが毎度起こると考えると、「私は疲れたので、帰ります」「ベットに入ったのに、眠れなかった」などという文が出てきた時に、大パニックになるわけです。当たり前ですね。~o~

 

 この「をにがどば」で主語の交替が起こるのは、あまり高い確率ではないということが、上記の例から何となく判りますよね。まあ、交替が起こる方が確率的に高いだろうとは思いますが、「起こりやすい」までは言えないでしょうね。

 

 こんなふうに、古文の主語に関する問題は、現代語に置き換えて考えると楽に理解できることが多いものです。例えば、会話文で省かれやすい主語は誰か、現代語の会話を想像して考えてください。あきらかに「私」と「あなた」でしょう。会話文で主語が書かれてなかったら、そういう推論をしながら読めば良いということです。

 

 現代語から類推する方法が使いにくいのは敬語に関することや特殊な古典常識が絡むことくらいでしょう。現代人は敬語を使いたがらないから。だから、敬語を利用して主語を考える時には、特別な方法として意識する必要があります。

 

 逆に言えば、敬語の知識や特殊な古典常識を利用して推論しなければならない場合以外は、キチンと現代語訳してやれば、主語の見当はつくということです。現代語の感覚を上手く利用してください。

 

 そして、そのために、キチンとした現代語訳が出来るように、いろいろ訓練してみてください。総合的な読解力を向上させることが主語を把握するための最善の方法なのです。

 

 とまあ、こんなアドバイスを、「主語判らない病患者」の皆さんにはしています。これ、ごく普通のアドバイスのはずなんですが、主語狂想曲の最中では、もはや普通じゃないのかもね。

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