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2015年1月 6日 (火)

受験指導における訳というものについての硬い話

 「しばらく娘と雪の上のことだけ」と書いておきながら、ちょっと思い出したことがあります。かなり唐突ですが、古文の現代語訳の硬い話です。

 

 先日、仕事終了後に質問を受けました。センター試験の過去問の設問になっていない所の現代語訳について。

 

 2005年本試、『日光山縁起』から、「この川の水を飲みぬれば、ふたたび妻にあはずと申すなり」の部分の訳について質問でした。その子の持っているセンター試験対策の本には、「この川の水を飲みぬれば」が”その川の水を飲んでしまったら”と訳してあるというのです。

 

 「『已然形+ば』なのに何故仮定条件の訳をしているんですか」とのこと。うーーん、よく勉強しるなあー、モットモだ。

 

 これ、多分、その本を書いた方は、ある程度判ってやっているんでしょう。趣味で訳しているなら、間違えとは言えません。ちゃんとした訳です。しかし、受験指導の本の中の訳としては、問題があります。

 

 確かに文脈から言うと、ここは仮定条件です。しかし、「飲みぬれば」の「ぬれば」は、どうしても「已然形+ば」です。そして、「已然形+ば」を古語辞典で引くと、”・・・したら”という訳は出てきません。

 

 これは実は簡単なことです。「已然形+ば」には、いわゆる確定条件以外に、恒時条件とか恒常条件と呼ばれるものがあり、これを訳すと、”・・・すると、いつも(必ず)”となります。これは、一種の仮定条件です。恒時条件とは、一種の仮定のもとに、必ずいつも一定の結果が生ずることをいうのです。この用法は室町から江戸に掛けて「未然形+ば」と入れ替わって行くことになり、江戸後期に至って、現代語の「仮定形+ば」の語法となります。

 

 この文章の場合は、”この川の水を飲んでしまうと、必ず、妻に会わないことになると申しているのです”という意味になっているのです。

 

 これを判りやすく現代語に訳すと、確かに、”この川の水を飲んでしまったら”となるかもしれません。しかし、それでは、古語辞典に頼って学習を進めている受験生に理解不能な訳になってしまいます。

 

 実は、古文の現代語訳というものは、古語辞典に載っている訳だけでは上手くいかない場合があります。どうしても学校文法で説明しきれない文法現象などがあるためです。例えば、単なる<打消>「ず」を”・・・できない”と訳したくなることもあります。

 

 しかし、だからと言って、受験指導において、古語辞典の訳を無視して、文脈から勝手な訳をつけていては、単に受験指導だけでなく、古文の教育そのものがよって立つところを失います。古語辞典なんか引かずに勘で訳して良いということになっては、高校や予備校での教育は崩壊してしまいます。

 

 確かに古語辞典の説明は万全なものではないけど、「古語辞典は万全じゃないから」と古語辞典を無視した勝手な訳をつけたりすると、困るのは、古語辞典で勉強している真面目な高校生受験生の皆さんです。

 

 「古語辞典は万全じゃないから」と勝手な訳をつける方は、単なる自己満足で受験生を困らせていることになります。そんなことは教育者のやって良いことではありません。受験生を指導する立場の人間は、なるべく古語辞典に忠実に、しかし、文脈には適合するようにと熟慮しながら現代語訳を作らねばなりません。これは、受験指導をする者の責務です。

 

 まあ、古文は趣味でやってるんだよという方がたまたま受験指導してしまったなら、何をかいわんやなのですが・・・。

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