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2015年5月 8日 (金)

ダイタンですね、センセイ方

 気づいてみたら、奴隷週間ももうすぐ終了です。イヤハヤ、長かった。これで一学期のヤマは越えました。

 今年は何故か、奴隷週間の間にいろいろと問題のある質問を受けました。「ウチの高校の先生は『・・・』だと教えてくれたんですけど・・・・」ってヤツ。まあ、例年、このテのことはあるのですが、今年は、何故か、この期間に集中しました。以前取り上げたことも含まれているけど、もう一度まとめてみます。

 その1

 「ウチの高校の先生は、『せ給ふ・させ給ふ』の形の『せ・させ』は必ず<尊敬>になると教えてたんですけど」

 これ、某都内の私立進学校の生徒さんからの質問です。ぶっ飛びました。ダイタン過ぎますヨ、某O学園のセンセイ。~o~

 当然のことですが、「せ給ふ・させ給ふ」の形でも、「せ・させ」が<使役>になることはしばしばあります。確かに、「せ・させ」が<尊敬>となって二重敬語を作ることは多いのですが、それは、確率的に多いという程度。

 試みに『源氏物語 桐壷巻』で統計を取ってみると(本文は小学館『新編古典文学全集』による)、「せ給ふ・させ給ふ」の形は61例あり、そのうち、明らかな<使役>は17例でした。つまり、28%ほどが明らかに<使役>だったわけです。こんなに<使役>の例が出て来るのに、「必ず<尊敬>」なんて教えちゃって、教科書読むのに困らないんでしょうか。こちらが心配になります。

 その2

 「ウチの高校の先生は、『べし』に打消がついてたら、必ず<可能>だと教えてたんですけど」

 これは浪人君からの質問でした。これもモチロン、ダイタン過ぎます。ちょっと古語辞典を引いて「べからず」を当たれば、「べからず」で<禁止>や<不適当><打消推量>などの例が出てきます。そもそも、「立小便すべからず」などというふうに、現代語でだって使うぐらいなのにねえ。~o~

 これはもしかすると、例の『はじめからていねいに』の影響かもしれないです。『はじめからていねいに』には、「『打消語が下にあったら、『べし』の意味は『可能・命令』です」なんて断定しているから。

 まあ、「必ず<可能>」って言い切っちゃったってことは、『はじめから』よりもダイタンなわけですけどね。~o~

 その3

 「ウチの高校の先生は、『ば』の前後で必ず主語がかわるって教えてたんですけど」

 これに関しては、もうこのブログで書いたことがあります何度もあります。まだいるんですね、こんなダイタンなセンセイが。~o~

 これらのセンセイ方は、実際に教科書を読む時に自分が紹介した方法をお使いではないのではないでしょうか。自分で、これらの方法を使って教科書の文章と格闘してみれば、これらの方法がいかに頼りないものか判るはずです。

 こんなダイタンな方法を教えちゃう方がいらっしゃるんですから、いまだに某有名講師Aの文法副教材が使われてたりするのも無理ないですね。奴隷週間の間にも、何人も生徒さんが来ました。「ウチの高校では、京○書房の副教材だったんですけど」。

 ごくごく当たり前のことですが、

 自分で古語辞典を使いながら古文を訳すこと!!!!!!!!!!!

 こんな古文学習の基本中の基本を、これらの高校のセンセイ方は生徒さんに教えているんでしょうか。教えていらっしゃらないんでしょうねえ、御自分でなさっていないわけですからね。

 まあ、こういう方達がいらっしゃるので、我々の仕事もなくならずに済んでいます。我が家の経済にとっては、ありがたいことなんでしょうけどねへ。

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コメント

 質問3つとも、いわゆる受験テクニックなるものでしょう。一方「自分で古語辞典を使いながら古文を訳すこと」は当たり前といえば当たり前のこと。
 おもしろいことに、高校と予備校が逆転しているのです。高校教員のほうが受験技術に走り、予備校講師のほうが正統的に読むことを重視する。いわゆる普通の授業では受験には対応できないと考える教員やテクニックを教えてくれればいい授業だと考える高校生がいるので、自然そういう授業になり、その種の文法のテキストが売れるようになるのでしょう。
 おそらく予備校生は、もっと技術的なことを教えてくれるものとばかり予想していたという思いこみがあり、前後の文脈を確かめながら、ここの助動詞の意味はどれが適切なのか考えてごらん、さらに古語辞典を引いてきちんと確かめなさいなどと説明する講師にとまどいを覚え、そんな面倒なことよりもこういうのはどうでしょうかと聞いてくるのだと思います。
 進学校の先生方も、できれば予備校の授業を受けてみるといいと常々申しております。優れた講師ほど、実に正統的な読みを実践しているということがわかるというのが経験上いえると思われます。
 まあそうでもない予備校講師もいるというのは、無明講師さんのほうがよくご存じだとは思いますが。


投稿: ニラ爺 | 2015年5月10日 (日) 08時11分

>普通の授業では受験には対応できないと考える教員やテクニックを教えてくれればいい授業だと考える高校生がいるので、自然そういう授業になり、その種の文法のテキストが売れる

そうなんでしょうねえ。
本当は、「普通の授業」を忍耐強く続けなければ、受験にも対応できないんですけどね。

 こういう、形だけで全て判断してしまう授業の怖いところの一つは、こういう授業を受けた生徒さんが将来教壇に立って二次災害を起こしてしまうことだと思います。
 例の文法副教材も出来てから十年ほど経ちますからねえ。今年、このテの質問が多いのも、もしかして…。

投稿: Mumyo | 2015年5月11日 (月) 06時28分

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