注釈書への疑問その六~「花の咲く」は言葉遊びなのか
今年度の赤本をチェックしている中で、ちょっと気になったことがありました。今年度の明治大学政経学部の問題です。
出典は『和泉式部日記』で、敦道親王が和泉式部を連れ出した翌朝、牛車で帰った和泉式部の歌の返歌として詠まれた親王の歌に設問が付されていました。
「朝露のおくる思ひにくらぶればただに帰らむ宵はまされり」
問 この歌には和歌の修辞法が二つ使用されている。それぞれを漢字二字で答えよ。
赤本の解答には、「掛詞・縁語」とありました。この解答は、実は、『小学館 古典文学全集』(1971年、藤岡忠美 校注)にある通りです。『全集』の頭注には、「『おくる』は『置く』と『起く』とをかけ、『置く』が『朝露』の縁語」とあります。恐らく赤本執筆者は『全集』を見て解答解説を執筆したのでしょう。
しかし、手元にある他の注釈書を見ると、意見が分かれます。『全講和泉式部』(至文堂 改訂版1983年、鈴木一雄著)では、「『おくる』は『露の置く』の『置く』と『起くる』との懸詞」とあり、縁語を認めていません。『新潮日本古典集成』(1981年 野村精一校注)の頭注には、「『おくる』は、『送る』に露の縁語『置く』をかけた」とあり、縁語は認めるものの掛詞が違っています。『講談社学術文庫』(1980年 小松登美全訳注)では、「朝露の『置く』に『起くる』を掛けた」とあって、縁語は指摘されていません。
整理すると、
①「置く」と「起く」の掛詞を指摘、縁語の指摘無し。→『全講和泉』『学術文庫』
②「置く」と「起く」の掛詞を指摘、縁語を認める。 →『全集』
③「置く」と「送る」の掛詞を指摘、縁語を認める。→『集成』
ということです。明治の出題者は、「修辞法が二つ使用されている」と言っているので、恐らく、『全集』か『集成』を見ての出題ではないかと思われます。
ところが、この『全集』と『集成』の注は、どうも腑に落ちません。というのは、「朝露の置く」は普通に文脈的につながっているのであって、こういう二語同士を縁語と認めることは無いからです。
たとえば、「花の咲く」と詠んだ時、「花」と「咲く」は縁が深いけれども、決してこれだけでは縁語とは認められません。こんな通常の文脈でつながれた二語を縁語と認めていた日には、日本語のあらゆるセンテンスが縁語という言葉遊びを含んでいることになるからです。そういう意味で、『全集』と『集成』の頭注は、どうも胡散臭い気がします。
では、ここには、掛詞が用いられているだけなのかというと、恐らく違うでしょう。『和歌大辞典』(明治書院)は、「あさつゆの」の項目でこれを「消」「わが身」「命」にかかる枕詞と認め、例歌として万葉歌を挙げ、さらに、「平安時代以降も『ほととぎす夢かうつつかあさつゆのおきて別れし暁のこゑ』(古今六四一)など数多く用いられている」と記しています。
ここは、「朝露の」を、掛詞「置く-起く」を介して「起くる」を導き出す枕詞と取っておくのが良いのではないでしょうか。解釈上もそれで無理なく解釈できます。
明治の出題者が、注釈にも出ていない「枕詞・掛詞」説を受験生に見つけさせようとしているとは考えられないので、出題者の用意した解答は「掛詞・縁語」なのでしょうが、何とか「枕詞・掛詞」という解答も別解として認めてくれていると良いのですが・・・、どうでしょうかねえ。~o~;;
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コメント
この問いを読んで、おそらく出題者は「掛詞・縁語」を想定していると推察されます。「入試問題正解」(旺文社)も、やはり「掛詞・縁語」という答えになっています。
ただ、鈴木一雄「全訳読解古語辞典」は「あさつゆの」で「枕詞」と明記しているし、手元にある数冊の「国語便覧」の類にも、枕詞一覧に「あさつゆの」は載っています。
縁語の説明というのは、修辞法の中で、最も難しく、当時の文化や言語感覚を知っていないと本当のところはわからないので、ややあいまいになってしまい、こういうものなのだといって濁してしまうのが実状でしょう。
これ、ふつうに「あさつゆの」を枕詞と答える受験生、結構いると思います。そこで審議して、枕詞も正解と認めるのか否か。密室で採点されるだけに実のところはわかりませんが、私は、別解というよりむしろ正解として認めるべきだと思いますね。
投稿: ニラ爺 | 2015年9月16日 (水) 17時00分
賛同してくださってありがとうございます。正解として認めてくれるのがベストですが、はたして、どうだったか。
でも、ニラ爺さんのおっしゃるように、「あさつゆの」を枕詞と答えた受験生は、きっと、結構いたんだと思います。その子たちが報われていると良いのですが。
投稿: Mumyo | 2015年9月17日 (木) 07時07分