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2015年10月14日 (水)

注釈書への疑問その七~瑣末過ぎた「尊きわざ」

 ウチのテキストに載っている『源氏物語』の文章で、気になることがありました。本当のところ、大変瑣末な話でなので、ブログの記事にするのもどうかなと思ったのですが、気になって調べてしまったので。

 「橋姫」巻の、宇治八宮と宇治の阿闍梨の交友を描く文章です。

 「(阿闍梨は)をさをさ公事にも出で仕へず籠り居たるに、この宮のかく近きほどに住み給ひて、さびしき様に、尊きわざをさせ給ひつつ、法文を読み習ひ給へば、尊がり聞こえて常に参る。」

(阿闍梨はめったに朝廷の仏事にも出かけて出仕することなく籠っているが、この八宮がこのように近い所にお住みになって、寂しい様子で、「尊きわざをせさせ給ひつつ」、経文を読みお習いになるので、尊いと思い申し上げていつも八宮邸に参上する。)

 この「尊きわざ」にウチのテキストでは、「尊い仏道修行」と注がついています。これがどうも気になるんですよ。

 「尊きわざ」=”尊い仏道修行”と取ってしまうと、「せさせ給ひ」の主語は八宮なのですから、仏道修行なさるのは八宮で、「させ給ひ」は二重敬語ということになります。しかし、『源氏物語』では、地の文で二重敬語が用いられる所謂最高敬語は、帝または帝に準ずる主体に限られるという玉上琢弥氏の研究があったはず。八宮に最高敬語は不味くないかな。

 しかも、この前後を見渡しても八宮に最高敬語は用いられていません。『源氏』はかなり敬語をキチンと使う作品なので、ここで八宮の敬意に不一致が起こるというのは、ちと考えにくいんです。

 ちなみに、敬語使用の安定度というのは、作品によって大きく異なります。時代の下った作品が不安定になるのはある意味当然なのですが、平安中期でも歌物語は不安定ですし、『源氏』のちょっと前の『落窪』などにも明らかな不一致が出て来ます。それゆえ、受験生は作品によって敬語に対する態度を変えた方が良いのですが、その作品の文章の特徴まではなかなか把握できません。それゆえ、敬語によって主体を判定する方法は、「使っても良いが頼りすぎない」態度が望ましいということになります。

 さらにちなみに、敬語をキチンと使うはずの『源氏』にも不一致はあります。ただし、それは表現技法としての不一致。「『源氏物語』の遠近法」と呼ばれるものです。紫式部という女の表現技術は同時代の作品と比較すると、考えられないくらい突出しています。それが時々受験生には仇をすることになります。

 閑話休題。ここは、特別な表現技法ということが考えられないので、不一致はいただけません。とすると、「させ」を<使役>に取りたいところなのですが・・・。

 手元にある注釈書(『日本古典文学大系』<岩波書店 1958 山岸徳平校注>、『源氏物語評釈』<角川書店 1964 玉上琢彌著>、『日本古典文学全集』<小学館 1970 阿部秋生 秋山虔 今井源衛校注>、『新潮日本古典集成』<新潮社 1976 石田穣二 清水好子校注>、『新編 日本古典文学全集』<小学館 1994 阿部秋生 秋山虔 今井源衛 鈴木日出男校注>)で、ここをハッキリ<使役>で訳してくれているものはありません。玉上さんの評釈まで・・・。

 今朝、思い立って、『源氏物語大成』で「尊きわざ」を調べてみたのですが、この箇所以外には二例あり、「若菜下」巻の「尊きわざせさせ給ふ」は、紫の上にとりついた物の怪のために、源氏が尊い法要をさせる箇所ですし、「手習」巻の「月ごとの八日は、かならず尊きわざせさせ給へば」は、薫の君が毎月八日に薬師如来の供養をおさせになるという箇所です。

 つまり、この箇所以外の二例は、「尊きわざ」=”尊い法要、供養”であり、いずれも僧に命じてさせるものです。二例しかないので断定しにくいけど、ここも「尊きわざ」=”尊い法要”ととり、八宮が阿闍梨に命じて法要をさせていると取れば、敬語法上無理がなくなります。

 というようなことを朝から調べていたら・・・尾籠な話で恐縮ですが、瑣末なことに神経を使い過ぎたってことなのか、お腹をこわしてしまいました。いやはや。~o~;;; 

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コメント

 まずもって尊敬申し上げ、おそれいりましたと。「手元にある注釈書」、すべてどんな本かはわかりますし、とりわけ大系と評釈は、学生時代さんざんお世話になった書物です。それらが「手元にある」というのが驚きです。もしかしたら「源氏物語」を研究なさったのでしょうか。
 これら碩学がどの程度ご自身で注釈を書いているのかということでしょう。
 ちなみに、「手元にある」『三省堂全訳読解古語辞典』第四版(13年)で「わざ」を試みに引くと、「仏事。法要。法会」とは出ていますが、仏道修行はありません。なおこの辞典は、ベネッセの古語辞典の影響を受け、この版から「チャート」というのを設け、より図式化し、視覚に訴える工夫を凝らしたようですが、三省堂らしさはなくなったかなと思っています。
 「平安中期でも歌物語は不安定ですし、『源氏』のちょっと前の『落窪』などにも明らかな不一致が出て来ます。」、なるほどその通りではあるけれども、こう見事に指摘されたのははじめてで、改めてパターン化して覚えさせるのがいかに危険なのかがよくわかります。

投稿: ニラ爺 | 2015年10月21日 (水) 12時49分

 ありがとうございます。

 敬語の一致に関しては、多分、一人の筆者が責任持って書いてる作品はある程度アテになるということだと思います。そういう点で一番アテになるのは『枕草子』ですし、口承された伝説の流れ込みやすい、歌物語や説話はダメなんだろうと思います。

投稿: Mumyo | 2015年10月21日 (水) 13時23分

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