菊は何処へ行った~『源氏物語』に関する些細なこと2
さて、『源氏』の話です。「帚木」巻雨夜の品定め中の「木枯らしの女」の一段。雨夜の品定めの主導者、左馬頭が語る優艶過ぎる女の話です。
左馬頭は、「まばゆく艶に好ましき(正視できないほど思わせぶりで色好み)」な女と交際していたのですが、選りにもよって同じ女の所へ通う殿上人と同車して帰ることになり、物陰から二人の様子をうかがっていると、男の笛に対して女が和琴を合わせます。
和琴を弾く女の「いまめきたるものの声(今風の演奏)」に対して、殿上人が語り掛けます。
「『庭の紅葉こそ踏み分けたる跡もなけれ』などねたます。菊を折りて、
『琴の音も月もえならぬ宿ながらつれなき人をひきやと めける
わろかめり』など言ひて」
(『庭の紅葉は訪れる方が踏み分けた跡もありませんね』などと憎まれ口を利きます。菊を折って
琴の音も月も何とも言えないほど美しい家ではありますが、薄情な方を琴で引き留めることができたのでしょうか
よくないようです」などと言って)
この「わろかめり」の解釈が諸注釈で意見の分かれる所です。
・A説
「(こんな歌を詠んでは)あなたに悪いようです」(岩波旧大系)、「これは失言」(玉上評釈)、「よからぬことを申したようですな」(小学館旧全集)。などと自分の和歌に対する評価と考える説。
・B説
「まづい相手でいやはや」(島津久基講話)「私は歓迎されぬ相手のようだ」(小学館完訳日本の古典)「わたしではどうも映えませんな」(小学館新全集)などと自分が女の相手として相応しくないとする説。
・C説
「不釣り合いなようです。せっかく引きとめられても、と自分の笛を謙遜するか」(岩波新大系)などと自分の笛に対する謙遜説。
現代の注釈書はおよそこの三つに分かれ、何にしても難解な箇所ということになっています。現代語訳も、「ご迷惑かもしれませんが」という谷崎潤一郎はB説、「これは失礼」という円地文子はA説を取るのでしょう。
このAB説は古注釈から来ているようで、『細流抄』が「歌のわろきと也」とA説。荻原廣道の『源氏物語評釈』が「只一つわろかんめることは、我がごとくに何のへんもなき人を引きとめけるにて、さこそ迷惑ならめといふ意也」とB説を取っています。
どの説も、それぞれにこの場面の読みとして理解できなくはないのですが、しかし、ABC説ともに致命的なのは、和歌直前の「菊を折りて」との脈絡です。まったく「菊」が出てこないのです。
そのためにこの部分には、古来、本文上の問題も指摘されていて、青表紙本系の「傳冷泉為秀筆本」と河内本系が和歌中の「月」を「菊」としています。しかし、和歌の直前に「いまめきたる物の声なれば、清く澄める月に折つきなからず」とあり、「琴」と「月」の組み合わせが賞賛されていることがあり、現在の諸注釈では「菊」という本文は採用されていません。
重くなり過ぎて、入力が難しくなったようなので、続きは明日。
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