重箱の隅の隅の愉悦~『源氏物語』に関する些細なこと4
女は、「さこそ」この頃源氏の君が自分のことをお忘れになっているのを嬉しいことと無理に思い込んでも、不思議に夢のような出来事が心に離れず甦ってくる毎日で、安らかに眠ることさえできず、昼はぼんやりと過ごし、夜は寝覚めがちであったので、古歌に言う春の木の芽ならぬ自分のこの目も休まる暇なく嘆き続けているのに、碁の相手をした娘は、今宵はこちらでと浮かれたおしゃべりをして寝てしまいました。
この「さこそ」が重箱の隅です。どうも、この「さこそ」に関して、諸注釈はややアバウトです。島津久基『源氏物語講話』と玉上琢彌『源氏物語評釈』は、ここに、「すっかり諦めて、あれから御手紙一本くださらない」(講話)「すっかりお諦めくださった」(評釈)と「すっかり」という語義と離れた意訳をつけています。
一方、旧大系、旧全集、新全集、新大系などの諸注は、これを指示語として頭注に、「如何にもあんな風(「御消息も絶えてなし」)で」(旧大系)、「あれほどに。『御消息も絶えてなし』を受ける」(旧全集)、「巻頭に『女もなみなみならずかたはらいたしと思ふに、御消息も絶えてなし』とあったのを受ける」(新大系)などとしています。
それでも良いのかなあ、と思うのです。ここで、空蝉が自分の最近の身の上について、「こんなふうに源氏の君が私をお忘れになっていてくれるのは嬉しいことと無理に思い込んで」と考えるのはおかしくないことです。しかし、それなら、「かく」とか「かやうに」が良かったのに、何故、「さこそ」なのか、ちょっと引っかかります。
試みに古語辞典を引いて見ると、「さこそ・・・逆接の条件句=いくら・・・でも」と出て来ます。なんだ、これで良いんじゃないの。
女は、この頃源氏の君が自分のことをお忘れになっているのを、いくら嬉しいことと無理に思い込んでも、不思議に夢のような出来事が心に離れず甦ってくる毎日で、安らかに眠ることさえできず、昼はぼんやりと過ごし、夜は寝覚めがちであったので、古歌に言う春の木の芽ならぬ自分のこの目も休まる暇なく嘆き続けているのに、碁の相手をした娘は、今宵はこちらでと浮かれたおしゃべりをして寝てしまいました。
これの方がすっきりします。
それにしても、こんなどの古語辞典にも記載されている普通の慣用句を、なぜ錚々たる学者さん達が見逃したのか、理解に苦しみます。まあ、こんな重箱の隅の隅までは気を配れないということなのかしらん。
その分、こちらにはお楽しみが残されているということなのでしょう。~o~
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