文法・古注釈・文豪~『源氏物語』に関する些細なこと6
一学期も第十週に入り、W杯も佳境に入りつつある中、なぜかの『源氏』です。
「夕顔」の巻、惟光の隣家(夕顔の家)の偵察報告を源氏が聞いている一節。家の前を頭中将が通りかかったことを、夕顔の家の女童が見かけて女房に報告している場面です。
(惟光)「(女童が)『君は御直衣姿にて、御随身どももありし。なにがし、くれがし』と数へしは、頭中将の随身、その小舎人童をなんしるしに言ひはべりし」など聞こゆれば、(源氏)「たしかにその車をぞ見まし」とのたまひて・・・
(『中将殿は御直衣姿で、御随身達もいました。誰ぞれと誰それと』と数えていたのは、頭中将の随身やその小舎人童の名を証拠として挙げておりました」などと申し上げるので、「確かにその車を『見まし』」とおっしゃって、)
この「見まし」が今回の重箱の隅です。現代の諸注釈は、これを源氏自身の「見届けたかった」という願望と考えているようです。
「その車をどうも見たいものだなあ」(『岩波書店 古典大系』)、「確かにその車を(頭の中将かどうか)見届けたかったね」(玉上琢彌『源氏物語評釈』)、「是非ともその車の主を突き止めたかったなあ」(島津久基『源氏物語講話』)、「見届けたかったのにな」(新潮社『古典集成』)、「見たいものだった。『まし』はありえないことをあってほしいと希望する意」(小学館『古典文学全集』)、「できるものなら見たいものだった。『まし』はありえないことをあってほしいと希望する意」(小学館『新編古典文学全集』)、「しっかりとその車が頭中将のそれであるかを見られるなら見たいもの、の意」(岩波書店『新日本古典文学大系』)、「源氏の言。しっかりとその車(が頭中将のものか)を見られるなら見届けたかったのに」(岩波文庫)。
しかし、「まし」の希望は、「事実に反する事がらを希望する意を表す」(ベネッセ古語辞典)なのであって、源氏はその場に居合わせていないので、見なかったという事実自体がありません。「そこにぞ居まし」とでも言うのならともかく。
その場に居て見なかったのは、惟光です。だから、辞書に記載された文法に則って読むかぎり、ここは、「(お前自身が)確かにその車を見届ければよかったのに」と訳す方が優ります。
もしかして、上記のような訳は新見なのかしらんと思って、古注釈を見ると、
「源の詞也。それをたしかに見とどくべき物をと也」(『細流抄』)、「『ほかの散りなん後ぞさかまし』と言へると同じ格の詞也」(『玉の小櫛』)などというのは、明らかに上記のワタシの考え方と合致します。
おまけにどういうわけか、潤一郎新々訳源氏は、「その車を確かに見届ければよかった」。おおお、文豪はそう来たか。~o~
玉上博士は、谷崎の協力者だったという話なので、もしかして、玉上評釈の「見届けたかったね」は、「(お前が)見届けたかったね」のつもりなのでしょうか。
ともあれ、ここは、源氏自身の見たかったという希望と取るより、お前が見届ければよかったのに、という惟光を責める言葉と取った方が自然です。惟光は自邸におり、隣家の会話を聞いて慌てて通りに飛び出せば、この車を確認できたはずだからです。つまり、ここは、何事にも機転の利く惟光にして、ちょっとした落ち度なんでしょう。
そう取ると、この後の惟光の「私の懸想もいとよくしおきて」以下の会話が、失策を挽回しようとする反応と読めてきます。ここは、そういう主従のやり取りの呼吸が活写されている一節なのでしょう。源氏自身の希望と取っては、台無しです。
それにしても、現代の学者さんたちをそっちのけにして、文法と古注釈と文豪がつながるとはねえ。~o~;;;;
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