「まして」海の底へ~『源氏物語』に関する些細なこと7 その二
自己監禁生活十六日目。今朝の検温結果36.85°。
解決策というのは、句読点の打ち方を次のように変えることです。
「わが身かくいたづらに沈めるだにあるを、この人ひとりにこそあれ、思ふさまことなり、もし我に後れて、その心ざし遂げず、この思ひおきつる宿世違はば、海に入りね」
つまり、「思ふさまことなり」の後を句点から読点に替えるのです。これは、一見、玉上『評釈』と同じ処理のようですが、玉上博士は、本文に一切句点というものを用いませんので違います。ワタシのは、「思ふさまことなり」の後を読点にすることで、「この人ひとりにこそあれ、思ふさまことなり」を挿入句として扱うということ。
つまり、「わが身かくいたづらに沈めるだにあるを、もし我に後れて、その心ざし遂げず、この思ひおきつる宿世違はば、海に入りね」という主文脈の間に「その心ざし」を説明する挿入句「この人ひとりにこそあれ、思ふさまことなり」が挟まっていると考えたのです。
昨日の記事に書いたように、連語「だにあり」は、「Aだにあり、(まして)B~」で”Aでさえ~、(まして)Bは~”の意味になります。この主文脈の場合、A=「わが身いたづらに沈める」、B=「もし我に後れて、その心ざし遂げず、この思ひおきつる宿世違はば」、~=「海に入る(ほどの無念)」となるわけです。
こう考えると、主文脈の訳は、”私の身がこのようにむなしく沈淪していることさえ無念なのに、もし私に先立たれてその意志を遂げることなく、私の思い遺した宿縁と違うことになるならば、ましてそれは残念無念なことなので、お前は海に身を投げなさい”のようになります。
これに、「その心ざし(その意志)」を説明する挿入句が挟まるのですが、この処理はやや難しくなります。というのは、通常、現代語では挿入句は疑問文の形を取るものだからです。
挿入句は、古典語でも疑問文の形を取ることが多いのですが、古典語だと、時々、平叙文の形の挿入句にお目にかかります。そういう文は極めて訳が難しくなるのですが、”~だが”くらいの処理で挟み込んでやることになるでしょう。すると、入道の遺言全体は次のような訳文になります。
”私の身がこのようにむなしく沈淪していることさえ無念なのに、娘はこの人一人だけれど、私には特別な思惑があるのだが、もし私に先立たれてその意志を遂げることなく、私の思い遺した宿縁と違うことになるならば、ましてそれは残念無念なことなので、お前は海に身を投げなさい”
ちょっとゴチャゴチャしちゃうのですが、まあ、偏屈な男の会話文ですから、キレイな文章じゃなくても良いでしょう。~o~
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