「まして」海の底へ~『源氏物語』に関する些細なこと7 その一
自己監禁生活十五日目。今朝の検温結果36.76°。
昨日予告した通り、『源氏物語』に関する些細なことです。
「若紫」巻、北山から都を見下ろす光源氏に従者の良清が明石の入道について語る場面の、入道の娘への遺言が今回の重箱の隅です。
(入道)「わが身かくいたづらに沈めるだにあるを、この人ひとりにこそあれ、思ふさまことなり。もし我に後れて、その心ざし遂げず、この思ひおきつる宿世違はば、海に入りね」
(「このわたしがこうしてむなしく落ちぶれていることだけでも無念なのだから ― 子はこの娘一人きりではないか、私には特別の考えがあるのだ。もしわたしに先立たれて、その志がかなえられず、わたしの思い決めてある運のとおりにならなかったら、海に身を投げよ」)
上記は小学館『新編日本古典文学全集』の本文と現代語訳です。
この部分、実は、近代の諸注釈書は本文の句読点と現代語訳が微妙に異なっています。
まず、本文の句読点ですが、
「わが身…だにあるを、この人…こそあれ。思ふさまことなり。」(『源氏物語講話』島津久基)
「わが身…だにあるを、この人…こそあれ、思ふさまことなり、」(『源氏物語評釈』玉上琢彌)
「わが身…だにあるを。この人…こそあれ。思ふさまことなり。」(小学館旧『全集』『完訳日本の古典』)
「わが身…だにあるを、この人…こそあれ、思ふさまことなり。」(岩波旧『大系』・新潮集成・小学館『新全集』・岩波『新大系』・岩波『文庫』)
さらに、副助詞「だに」の解釈が二通りに分れます。「だに」は、”(せめて)~だけでも”と訳される<最小限の限定>の意味と”~さえ・~すら”と訳される<類推>の意味を持つ助詞ですが、この解釈が各注釈書、ほぼ真っ二つに分かれています。
<類推> 島津『講話』・玉上『評釈』・『完訳』脚注・『新大系』・『文庫』
<最小限の限定> 旧『大系』・旧『全集』・『完訳』訳・新潮集成・『新全集』
イヤハヤ、お見事な分裂っぷり。『完訳日本の古典』なんて、脚注と訳文で分かれちゃう自己分裂のありさま。
昔、A先生にうかがったことがありますが、小学館旧『全集』は、本文と頭注と訳をお三方の先生の分業で行ったのだそうです。そこへS先生が加わって作ったのが『完訳』ですから、どなたかとどなたかの意見が分かれたってことでしょうねえ。
この混乱した糸を解きほぐす鍵は、「だにあるを」の解釈と句読点の見直しでしょう。連語「だにあり」は、逆接句を構成し、「『あり』の上に、下に続く文脈と対比的な意味を表す形容詞形容動詞を補って解する」とベネッセ古語辞典にはあります。
要するにこういうことです。「だにあり」は、「Aだにあり、(まして)B~」の形で、対比的なAとBについて述べるのですが、「あり」は補助動詞で、「B~」の「~」とほぼ同義の形容詞や形容動詞の代わりをしているのです。ですから、「Aだにあり、(まして)B~」の訳は、”Aでさえ~、(まして)Bは~”となるのです。
もちろん、そんなことは諸注釈を書いているくらいの碩学たちはご存知です。だから、例えば、旧『全集』頭注には、「『だに』の下にある『あるを』は『しかじかであるのに』の意。その『しかじか』の内容は前後の文脈によって定まる」とありますし、『新大系』では、「~」を「思ふさまことなり」と考えて、”わが身がかようにむなしく沈淪しているのですらそうなのに(格別の考えがあるのに)のに、この娘ただ一人であるけれど、(だからこそ)思いをかけるさまには格別のものがある”という訳を当てているわけです。
しかし、この『新大系』の考え方は、やや無理がありそうです。そのために、『新大系』を発展させた『文庫』では、”わが身がかようにむなしく沈淪しているのですら無念なのに、この娘ただ一人ではあるけれど、(だからこそ)思いをかけるさまは格別なのだ”と訳文を修正しています。つまり、自分の沈淪に対して抱く思いと娘にかける思いが同質のはずはないということです。
しかし、この文庫の訳にするためには、”無念”をどこからか持ってこなくてはいけません。現状では、”無念”はどこにも見当たらないのに。
実は、この問題、ある工夫で簡単に解決します。昨日、それを思いついてしまいました。あははは。~o~
まあ、こう暇だといろんなこと考えるってことですね。解決策については、また明日。
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