訳の至妙
娘(仮称ケミ)の小学校はようやく始まったのですが、ワタシの方はまだしばらく始まりそうにありません。どうするんだかね。
時間があるので、先日読んでいた「若紫」の続きを進めて、「末摘花」を読んでいます。
以前から、「末摘花」巻は好きだったはずなのですが、改めてじっくり読み直してみると、いや、こりゃまた、スゴイねえ。
「思へどもなほ飽かざりし夕顔の露に後れし心地を…」という濃縮されたスープのような味わいの書き出しも面白いのですが、狂言回し大輔命婦の扱いがお見事です。色好みの二枚舌女が、源氏と姫君を手玉に取っていく手並みの鮮やかさ、張り巡らされて行く伏線の可笑しさは、お見事としか言いようがありません。
なかでも、常陸宮の姫君、通称末摘花登場の最初の台詞の言葉選びは秀逸です。
「聞き知る人こそあなれ。ももしきに行きかふ人の聞くばかりやは」
この部分、諸注釈書は「聞き知る人こそ」の部分に古注以来の列子伯牙の故事の存在を指摘するのですが、そんなはっきり引用されたわけでもない故事はひとまず置いておきます。見事なのは「ももしき」という言葉選びです。
この「ももしき」は、枕詞を転用した語で”宮中・皇居”の意なのですが、普通は用いない重々しい構えた表現らしく、実は、『源氏物語』中では三例しか用例のない語です。「末摘花」以外の用例の一つは、「桐壺」巻の勅使靫負命婦の来訪を受けた時の桐壺更衣の母の会話文、もう一つは、「絵合」巻の藤壺御前での物語絵合右方の女房の『竹取物語』批評の中です。
「桐壺」での更衣の母は、「いにしへの人のよしある」と言われる旧家出身の大納言の未亡人ですから、重々しい大仰なしゃべり方をする人と考えられます。また、「絵合」の物語絵合の評語も、女院御前の論の言葉ですから、重々しい言葉が選び取られているのでしょう。
その「ももしき」が常陸宮の姫君の最初の台詞に出て来るのは、ちょっとインパクトがあります。この女は、厳密に研究され尽くした源氏物語年立の世界でも、生没年不明年齢不詳の人物なのですが、この登場の時点ではまだうら若き姫君のはずだからです。
この一言には、この姫君の人物造形が暗示されているはずです。旧弊で保守的で何をするにも大げさに過ぎ、物笑いの種になる姫君、この一言の向こうに、そんな姫君の姿が透けて見えるのです。
うーん、すごいなあと思うのですが、近代の注釈書、現代語訳の類でこの一言に注目しているものはほぼ皆無です。ほとんど全てが、単に、”宮中”か”御所”と訳して済ませてます。
学者さんは言葉の意味にのみ注目し、学問的に外れない訳語を選びます。一方、作家さんの訳文は、『源氏』の粗筋をなぞっただけの御自分の文章になりがちです。
こういう言葉選びのニュアンスや背景にまで踏み込む訳というのは、無いんだろうなー、と思っていたら、いやはや、文豪というのはエライものです。またまた潤一郎君がやってくれました。
「あなたのような音を聞き知る人がここにいますのに。畏きあたりに出入りをする人に、とてもお聞かせするほどのものでは」
以前にも、新新訳潤一郎源氏を褒めたことがあります。ここでも、単なる”宮中”や”御所”じゃなく、”畏きあたり”とは恐れ入ったね。
ちなみに、「桐壺」の用例では、”尊き百敷のあたり”という訳語を使ってます。やはり、単なる”御所”じゃないんです。
谷崎の協力者である玉上博士は『評釈』の中で”御所”とやってますから、玉上博士の入れ知恵ではないでしょう。新新訳執筆時に『源氏物語大成』は刊行されていると思われるので、調べようと思えば上記のようなことは調べられたでしょうが、調べて書いたというよりは、文豪の直観なんでしょうよねえ。
訳の至妙。偉いモンだよ潤一郎。~o~
| 固定リンク
« 「いそぎ」の人々 | トップページ | すぐ対岸の嵐 »
コメント