嬉しい発見と恥ずかしい感動
今朝の検温結果は36.6°。
今朝、ちょっと早く起きて『源氏物語』「若紫」巻の藤壺との逢瀬の段を読んでいて、ちょっと発見があり嬉しくなりました。
いや、別に例の重箱の隅ではないのです。小学館新編古典全集本の頭注にとても嬉しくなる一節を発見してしまったのです。藤壺と逢瀬を持った後の源氏の、夜明け前の感慨を語る部分、
「何事をかは聞こえつくしたまはむ、くらぶの山に宿もとらまほしげなれど、あやにくなる短夜にて、あさましうなかなかなり。」
この「くらぶの山」の頭注です。
「鞍馬山の古名とも、近江国甲賀郡蔵部の地の山ともいわれる。過ぎゆく時間を超えて、この歌枕の名のとおり暗闇の夢の中で、いつまでも藤壺に吸引されていたいとして、次の夢の歌を導く。」
これのどこが嬉しいかというと、こんなところに「吸引されて」などという語を使うのは、明らかに故A先生だからです。
ちょっと前に書きましたが、小学館の旧全集は本文と訳と頭注をお三方の先生が分業で執筆していたのですが、頭注はA先生の分担だったはず。頭注には明らかにA先生の語彙が散りばめられています。新全集は、故S先生が手を入れて出来たわけですが、所々旧全集の記事が残っています。ちなみに、この部分旧全集だと、
「鞍馬山の古名とも、近江国甲賀郡蔵部の地の山ともいわれる。この歌枕の使用は、過ぎゆく時間を超えて、その名のとおり暗闇の夢の中で、いつまでも藤壺に吸引されていきたい心情を、鮮烈にかたどっている。」
うおー、A先生節炸裂!~o~
こういうの読むと、A先生の教えを受けた人間は猛烈に嬉しくなります。いいなあ、A先生節。
ちなみに、この藤壺との逢瀬を語る一節は、「若紫」巻の中でも白眉と言って良い名文でしょう。これについて、旧全集はこのように解説しています。
「藤壺との密会の詳細は省き、ただ二人の対応する心情が重く凝縮した文体で語られる。それぞれの苦悩をこめる歌の贈答にも今後の二人の関係が予知されよう。」
そう、「重く凝縮した文体」。それゆえに、その終わりもまた印象的です。二人の重苦しい苦悩が凝縮した文体で語られた直後に、
「命婦の君ぞ、御直衣などは、かき集めもて来たる。」(女房の命婦の君が、源氏の御直衣などを集めて持って来ていた)
この一文によって二人の濃密な逢瀬と苦悩の時間は、外界の時間に潔いほど鮮やかにスパーンと切り替わるのです。すごいなー、こんなのアリかよ。
ワタシは別にこの文章を初めて見るわけではありません。それどころか、20代から繰り返し何度も目を通しているはずなのです。それなのに、今朝のこの感動は何なんでしょうね。
今さら恥ずかしい感動です。今まで40年間、ワタシは何をしていたんですかねえ。
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