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2020年7月16日 (木)

「心」は知りきや~『源氏物語』に関する些細なこと8

 ちょっと久々に『源氏』些細なことシリーズです。

 「紅葉賀」巻、試楽での青海波の舞の後、源氏の送った和歌とその返歌が今回の重箱の隅です。

 「(源氏)もの思ふに立ち舞ふべくもあらぬ身の袖うちふりし心知りきや

   (中略)

  (藤壺)から人の袖ふることは遠けれど立ちゐにつけてあはれとは見き」

 この贈答歌に対して、従来、「『袖ふる』は、相手の魂を招き寄せる古代的な発想。舞の所作にそれを言いこめたか」「青海波は、(中略)本来唐の楽なので『から人』といった。『袖ふること』に『古事(故事・来歴の意)』をかける)(小学館『新編古典文学全集』頭注)」などと注を施して、

 「物思いのために、とても舞うことなどできそうもない私が、とくにあなたのために袖を打ち振ってお目にかけた、この心中をお察しくださいましたか」

 「唐土の人が袖を振ったて舞ったという故事には疎うございますが、あなたの舞の一挙一動につけて、しみじみ感慨深く拝見いたしました」(新編古典全集訳)

 のように訳して済ましてきました。

 しかし、なんだか奇妙です。源氏が「心中をお察しくださいましたか」と訊ねているのに対して、何故、藤壺は「故事に疎い」などと頓珍漢なことを答えているのでしょう。問いと答えが呼応していないのです。

 手元にある注釈書の類でこの呼応関係の不備に触れているのは、こういうことには機敏な反応をする玉上博士の『源氏物語評釈』です。

 「藤壺の歌では青海波が唐舞であることに託されて、唐人の心にすりかえられている。唐人の袖ふる心は、遠い異国の心なので私にはよくわかりません。しかしあなたの舞いぶりの見事さには感心いたしました」

 この説明は、これを読む限りで納得できるのですが、和歌の表現としては「唐人の袖ふること」なのですから、それを「唐人の心にすり替える」と説明して良いものなのか、少し疑問が残ります。

 思うに、ここで藤壺は、「心」という語の多義性を利用して源氏の和歌を巧妙にはぐらかしたのではないのでしょうか。

 「あなたを慕って袖を振る私の『心=思い』をお察しくださいましたか」と迫る源氏の歌を、青海波という唐人の舞において「袖うちふる」行為に込められた「心=意味」を聞いているものと意図的な誤読をして、「私は唐人の舞の故事には疎いので、袖を振る『心=意味』は理解できません」とはぐらかしたのではないかと。

 とここまで書いて思ったのですが、もしかして、『新編全集』などの執筆者達も上記と同様に考えていたのでしょうか。しかし、それにしては、『新編全集』では、和歌直後の「おほかたには」を「とても並々の思いではありません」などと取ってるからなぁ。はぐらかしていると取っている感じじゃないですよね。

 このあたり、諸注釈の説明が不十分な感じで、自説がどこまで独自性をもっているのか判断つきかねます。諸先生方に「『心』は知りきや」と訊ねてみたいのですが、どうなんでしょうかねえ。~o~

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