三五夜の思い
昨日は仲秋の名月だったようです。
夜の池袋の授業が終了して、小金井に帰ってみると、お団子が待っていました。小金井の我が家の窓からも月影は鮮やかでした。
月にダンゴ↑。
お団子食べながら、前日の夕刊の記事について考えていました。
「逆風の古典 見つめ直すと」のタイトルで高校国語における古典教育の必要性の是非を論じていたのですが、うーーん。
故A先生なら、「私達が来た道を知らずして私達自身を知る事はできません」とおっしゃるでしょう。講義の中でも、古典を学ぶ意義について何度か語っていらっしゃったと記憶しています。
故A先生は、押しも押されぬ『源氏物語』の大権威ですが、ご自身が『源氏』に取り組んだきっかけについて、「戦後、我々は古い日本と対峙せねばならなかった。今までの日本を打倒せねば、新しい日本の道は開けないと思っていた。今までの日本を打倒するためには、古い日本の本丸である『源氏』を知る必要があった。それで取り組んでいるうちに取りつかれた」という意味のことをおっしゃっていました。
古典を学ぶことは日本文化を知ることです。日本文化というのは、すでに死んだ化石などではなく、今生きてる自己そのものです。自己の思念、思想、言語、感性、それら全てが日本文化の上に生まれたものです。例えば、この夜、小金井の窓辺に置かれた月見団子だって日本文化の産物です。
そして、A先生もおっしゃっていたように、日本文化を知らずに自己変革も自己向上もありません。いわんや、文化や社会の進歩発展もありません。
古典を学ぶことなくGDPやら収入増加やらを求めるのは、根のない切り花だけを求めるようなものです。日本全体でそんなことを始めたら、ほどなく花も咲かなくなります。
夕刊の記事によると、切り花だけを求めるかのような新学習指導要領に、日本学術会議が提言をまとめ、「現代人と古典を分断しかねない」との危惧を示したそうです。
その日本学術会議自体が、政権側からコントロールされようとしていると、今朝の朝刊は訴えていました。学術会議の皆さん、ここが踏ん張りどころですよ。
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コメント
早くも馬脚を現してきたかとは思うものの、それにしてもここまで口を出すかと強い憤りを感じます。加藤、宇野両教授の書いた文章はそれなりに目を通していて、いつも教えられることが多く、それでいて決して声高に叫ぶという方とはとうてい思えません。
そういえば某大学の総長線もきわめて不透明な形で行われたとか。
改めて学問の自由を考えさせられます。
投稿: ニラ爺 | 2020年10月 4日 (日) 08時21分
今朝の新聞に、前政権の時代から行われていたという旨が載っていました。やっぱり始めたのはあの男でした。
妖怪の孫だけあって、どこまでも日本に仇をなす化け物だったんですね。
投稿: mumyo | 2020年10月 4日 (日) 10時13分