媼か翁か~『源氏物語』に関する些細なこと9の一
少し時間があるので、久々に『源氏』です。
今度は、重箱の隅にしては何か所かにわたり、少し広い範囲の読みに関わってきます。「些細」ではありますが、少し大きめの「些細」です。
『紅葉賀』の巻巻末近く、源氏と老女源典侍との逢瀬の場に頭中将が踏み込んで来る場面です。頭中将は自分であることを隠して乱入してくるので、源氏は源典侍のかつての恋人で典侍に未練のある修理大夫かと勘違いして屏風の後ろに隠れようとします。中将は可笑しさをこらえて、その屏風を畳んでいきます。今回の重箱の隅はその直後から始まります。
「内侍は、ねびたれど、いたくよしばみなよびたる人の、さきざきもかやうにて心動かすをりをりありければ、ならひて、いみじく心あわただしきにも、この君をいかにしきこえぬるにかと、わびしさにふるふふるふ、つと控へたり」
これに対して、小学館『新編古典文学全集』では、次のような現代語訳を施しています。
「典侍は、年寄りながらも、たいそう風流気のある色っぽい女で、これまでにもこうしたことではらはらさせられた折が何度かあったのだから、そうした経験から、内心ひどくうろたえてはいるものの、この者が君をどんな目におあわせ申そうとするのかと、心細さにぶるぶる震えながら、しっかりと中将にとりすがっている」
手元にある現代の注釈書『源氏物語講話』(島津久基)、『源氏物語評釈』(玉上琢彌)、岩波古典大系、新潮古典集成、小学館古典全集、岩波新古典大系、岩波文庫は、大同小異でほぼ上記のような解釈をしています。
しかし、この解釈には少し無理があります。「なよびたる人の」の「の」を"で"と<同格>ふうに訳していますが、<同格>とするには「の」に続く部分くに「ねびたれど、いたくよしばみなよびたる人」と<同格>をなす部分がなければならないのに、それがありません。島津講話や旧大系は、この「の」を”ので”と原因理由で処理しようとしますが、格助詞「の」には原因理由の用法はありません。
そもそも、この典侍が、”年寄りながらも、たいそう風流気のある色っぽい女”であることは、これまで縷々述べられているところであって、ここで今さら繰り返すのはやや冗長な感じがします。そのため、岩波文庫では「語り手は典侍の対応を皮肉る」などと説明が付いていますが、説明せざるを得ないのは、やや冗長と岩波文庫の注釈者たちも感じているからではないでしょうか。
ところが、古注釈の世界では、この部分に別解が存在していたようです。中院通勝『岷江入楚』には、「さきさきもかやうにて」の部分に「此内侍は修理大夫のかやうにみつけたる事前にもありし故に一入心をまとはす也」と注されていて、内侍の恋人修理大夫が以前同様の行為をしていて、今回も内侍はこの乱入者を修理大夫と考えていたと解釈しています。
この解釈が可能なら、前述した「の」の問題は解消します。「ねびたれど、いたくよしばみなよびたる人」を修理大夫と取ってしまえば良いのです。すると、「の」は<主格>となり、該当部分の現代語訳は、こうなります。
「典侍は、年は取っているけれどひどく風流めいて物柔らかな人(修理大夫)が、以前にもこんなことで乱心する折々があったので、慣れていて、たいそう動揺する中でも、修理大夫が源氏の君をどう扱い申し上げてしまうのだろうかと困惑して震え震え、じっと動かずにいます」
上記の訳のポイントは、「なよぶ」という動詞と「控ふ」という動詞の訳にあります。「なよぶ」は、確かに”好きがましい”の意味もありますが、通常、”温和だ・柔和で穏やかに振る舞う”の意味です。この場合、普段は温和な修理大夫が典侍とのことになると乱心すると解しておくのが良いと思われます。また、「控ふ」も、目的語が示されていないのですから、「つと控へたり」で”じっと動かない”の方が自然です。
すると、「ならひて」との脈絡から、この場面は、典侍が、修理大夫の性格を熟知していてこんなことには慣れっこになっているので、落ち着いてじっとしていたのだと理解することが出来ます。
この方が、文法的にも語法的にも自然なんですけどね。どうなんでしょう。この記事、明日に続きます。
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