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2021年3月11日 (木)

「十年」の分かり易さ~付『源氏物語』に関する些細なこと11

 今朝、朝刊に「東日本大震災10年」という見出しが掲げられました。早くも十年かとの思いもあり、あの日にこんなだった我が子の歩みを考えると、長い時間が経過したとも思います。

 その経過した時間を「10年」と名付けてしまうと、とても分かり易い気がする一方、「10年」と名付けることで、ひと昔の向こうへ整理してしまうのはいかがなものかとも思います。津波による行方不明の血縁者を捜し続ける人達、生まれ育った町が「帰還困難」とされ続けている人達、そういう人達の綿々と続く時間を「10年」で区切って分かり易くしてしまうわけにはいかないでしょう。

 少なくとも福島が再生していない以上、大震災は全国民にとって現在進行形です。「10年」は十年の意味を持ちません。現実はなかなか分かり易くならないということです。

 現実が分かり易くならないというのは、我が古典文学の世界も同様です。同じ今朝の新聞の『平家物語』現代語訳の広告に、「なんと分かりやすい感情のこもった意訳…『平家物語』の真髄に触れた思い」とあったのにはたまげました。古典文学の世界で「分かりやすい」意訳に対して「真髄」という言葉が出て来るとはね。古典文学を徒に分かり易くすることは、とりもなおさず「真髄」というものから離れる行為なのに。

 でも、「分かりやすい」を「理解」と勘違いするのは普通なんだよなぁ。~_~;;;

 「分かり易い」が「理解」にならない例を、最近『源氏物語』で一つ見つけてしまいました。ここから、「付」の「些細なこと」シリーズです。

 「葵」巻、懐妊中の葵の上が物の怪(六条御息所の生霊)に苦しめられ、それを父の左大臣、母の大宮が案ずる場面です。

 「ただ、つくづくと音をのみ泣きたまひて、をりをりは胸をせき上げつついみじうたへがたげにまどふわざをしたまへば、いかにおはすべきにかとゆゆしう悲しく思しあはてたり」

 これを小学館新編古典全集では、こう訳しています。

 「女君は、たださめざめと声をたててお泣きになって、ときどき胸をせきあげては、ひどく堪えがたそうにして苦しむご様子なので、どうなられることかと、左大臣家では、不吉な、また悲痛なお気持ちでうろたえ騒いでおられる」

 コレ、どこが「些細なこと」なのかというと、「いかにおはすべきにかと」の部分です。この部分、現代語的に括弧でくくれば、「『いかにおはすべきにか』と」になります。つまり、「いかにおはすべきにか」は、両親の葵の上を案ずる心内語なのです。

 通常、このように「にか」でセンテンスが結ばれる場合、「に」を<断定>の助動詞「なり」の連用形と取り、「あらむ」または「ありけむ」が省かれた結びの省略と考えます。この場合も、「いかにおはすべきにかあらむ(ありけむ)」のつもりで訳さねばならないはずです。

 とするとこの部分は、”どうなられることか”と言う訳には決してなりません。受験の答案なら確実に何点かの減点になります。”どうなられることか”の意なら、「いかになり給ふべき」「いかになり給はむ」等の表現になるのが自然でしょう。

 ところが、近代の諸注釈は全て同様な訳をしています。「如何なられることか」(島津久基『源氏物語講話』)、「どのようなおなりになるのか」(玉上琢彌『源氏物語評釈』)、「どうなられることか」(新潮社『日本古典文学集成』)。岩波系は注さえついていません。

 文脈から分かり易い意訳を施すか、問題なしとして素通りしているか、どちらかです。しかし、徒に分かり易くしてしまって良いんでしょうか。

 「いかにおはすべきにかあらむ」は、正確に直訳すると、”どうのようでいらっしゃるはずのことであろうか”となるはずです。この”はずのこと”というのは、「べき」の訳です。

 この「べし」は、意味の広い助動詞で、文脈により様々に訳される語です。この場合、本当に悩ましいのですが、「べし」の顔を立てる訳として、連体形「べき」の下に”宿縁”等を補って、”どのようでいらっしゃるはずの宿縁であろうか”というのはどうでしょうか。

 つまり、葵の上の両親は、漠然と「娘はどうなるんだろう」と心配したのではなく、執念深い物の怪に憑りつかれて本人とは思えないほどに取り乱す娘を眼前にして、その前世に思いをいたし、人間の努力では如何ともしがたい宿世に絶望して惑乱していると取るわけです。

 まあ、物語全体の流れに影響はなく、本当に「些細なこと」なんですが、それでも、無造作に分かり易い訳を施すと取り逃がす何かが確実にある気がします。こういうのは、どうなんですかねえ、本当の作品理解にはならないんじゃないかしらん。

 ましてや、「真髄」とは程遠いものになりますよねえ。

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コメント

 一昨日の最後の授業で、こんなことを話しました。
 「来年度予備校に通った方がいいのかという質問をよく受けます。それに対して、どうしてと聞くと、たいてい予備校の方がわかりやすく、解法技術を教えてくれるからと答える人が多いのに驚きます。もちろんそういう面もたぶんにあるでしょうし、そういう教え方をしている講師も少なからずいるはずです。が、私の知る限りでは、まっとうな予備校のまっとうな講師は、むしろ逆に本質的な授業を展開します。みなさんが期待されていることとは逆の授業です。高校教諭でもいますし、予備校講師でもいますが、単なる受験技術を教えるようなのは、避けた方がいいでしょう」
 今年度の現代文の授業で、あえて共通テスト対策をせず、ひたすら読ませ続ける授業を展開していて、結果的に加能作次郎が出題されたときに、心の中で喝采しました。つまらぬ駐車場の契約書を読んで、どこが問題点なのかというような授業をしていた教員はどういう言い訳をするのでしょうかねえ。
 

投稿: ニラ爺 | 2021年3月14日 (日) 09時16分

 昨日の新聞についていた教育情報紙にも分析が出ていましたが、国語に関しては、本当に大山鳴動して…という結果で拍子抜けしました。
 
 実は、我々の所でも三年前から試行調査問題の分析をし、高校生向けテキストを分析結果に合わせて大改訂して準備してきたのですが、共通テスト直前授業でのアドバイスは、「どう形式が変化しようと本質は動かない」でした。

 ずいぶん振り回されたというのが正直なところなのですが、でも、本質が動かなくて良かったと安堵する気持ちの方が大きいです。

投稿: mumyo | 2021年3月15日 (月) 09時58分

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