昨日は午後、あざみ野での授業でした。
本来なら五時過ぎに帰って来れるはずだったのですが、添削を持ってきた生徒さんがマジメな子で…。~o~;;
一時間以上サービス残業になりました。今年は、こういうことが多いです。「窮鳥懐に」とは言いますが、本当に困ってノート持ってくる子を無下には扱えません。
帰宅は六時過ぎになりました。その時は郵便受けを見る元気もなかったのですが、今朝、朝食時にワタシあての封筒がテーブルに置かれていたのを見て驚きました。毎年恒例のワタシの成績表でした。昨日の夕方着いていたらしいです。
中身をチェックして、とりあえず、ホッとしました。昨年のようなことはなく、一昨年並みでした。
というか、数字そのものなら、前期アンケートとしては自己最高でした。コレ、「ごほうび」と言って良いのかもしれないけど、今年はカリキュラム変更の影響で教科平均もかつてないほど上がっているのでねえ。
教科平均プラス2ポイントは、まあ一昨年、一昨々年並み。もっとイケそうな気がしていたんですが…。
なんせ、今年は添削を持ってくる子が多いですからね。
添削持参者には、二通りあります。予習したものを授業実施の前の週に持ってくる子と、授業が終わって復習したものを持ってくる子です。
復習でやった現代語訳は、間違えが無さそうなものなのですが、そうでもなく、細かいミスをしている子が多いです。話の粗筋を授業で教わっているので、安心してしまって助動詞や敬語などの細部に注意がいかないんでしょう。
実は、そういう例を最近、『源氏物語』の注釈書で見つけてしまいました。
「葵」の巻、生霊となって葵の上を取り殺した六条御息所と源氏の贈答歌です。
「人の世をあはれと聞くも露けきにおくるる袖を思ひこそやれ」
(人の世を無常だと聞くにつけても露のような涙が流れますので、残されたあなたの袖がどんなに涙で濡れることかとお察ししています)
という御息所の歌に対する源氏の返歌、
「とまる身も消えしも同じ露の世に心おくらむほどぞはかなき」
この歌を現代の諸注釈は、次のように解釈しています。
「生き残った者も死んだ者も、いずれも同じこと、露のようにはかなく消え失せるこの世の中に、執を残すのはつまらないではありませんか。私はさほど悲しんでいないのです。」(新潮社『古典集成』)
「後に残る者も消えてしまった者も、どのみち同じで、露のようにはかない世に生きているだけなのに、その露の世に執着するのは、つまらぬこと」(岩波『新日本古典文学大系』)
「後に残る者も、消えてしまった者も等しくはかない露の命の世に生きているだけなのに、その露にいつまでも執着しているのはつまらないことです」(小学館『新編日本古典文学全集』)
この三者の解釈で問題なのは、「心おくらむ」の取り方です。『集成』は源氏自身の悲しみと取り、『新大系』と『新全集』は、一般的な現世に対する執着と取っているようです。
しかし、それでは「心おくらむ」の「らむ」が無視されているのです。まるで、粗筋を知っていることに安心している受験生の復習時の訳のように。
こりゃ、「些細なこと」シリーズの12かしらんと思ったのですが、
岩波文庫は、ここを、
「生き残る身も消え去った人も同じ露のようにはかない人生に、執着しているという時間はあっけないことです」
とやっています。つまり、「らむ」を「しているという」と<現在の伝聞>で処理しているのです。うーーん、なかなかやるじゃない。
しかし、訳しただけで「執着しているという」の具体的内容には触れていません。これは、もしかして「些細なこと」かも。
と思ったのですが、例の文豪が、またまた見事な解答を示していました。新新訳潤一郎源氏頭注です。
「生き残っている身も、死んで消えて行った者も、結局は同じ露になる世の中ですのに、物事に執着なさるのはつまらないことです」
そうなんだよ、この「心おくらむ」は、御息所が主体なんだよなー。「執着なさる」は言い当てましたね。まあ、文法というよりは、例の文豪の直観なんだと思うけど。
「らむ」の<現在の伝聞>は、「あなたが執着しているという」と取るべきなんでしょう。つまり、御息所の贈歌の「思ひこそやれ」に対して、あなたがおっしゃっている「思ひこそやれ」は、つまらない執着で、はかないものなのですと返したというわけです。
考えてみれば、この二首は贈答歌なのですから、最初からそういう対応関係を考えてしかるべきでしょう。それが見えなかった現代の諸注釈は、和歌だからと大意を先に立てて、助動詞という細部をないがしろにしていたということなんでしょうか、受験生のように。
まあ、注釈書をお書きになった碩学たちと受験生を一緒にしちゃいけないんでしょうけどね。~o~;;
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