ハートでも本能でもないもの
仙台から帰って来て、久々にノンビリさせてもらっています。
仙台で、久々にこういう質問を受けました。
「自分は古文が苦手だ。古文は英語みたいなものだと思っている。主語などを把握するのに、いろんな法則を身に着けないといけないので、テキスト以外の古文をたくさん読みたいのだが、何を読んだら良いだろうか」
おやおや、主語判らない病の患者さんか。仕方なく、こういう説明をしてあげて、「法則を覚えてそれを使おうとすると、古文を得意教科には出来ない。古文を英語みたいなものと考えずに、日本語として読みなさい。法則ではなく、自分の中の現代語の感覚を利用することを覚えない限り、古文を得意教科には出来ないよ」とアドバイスしてあげました。
自分の中にあるはずの現代日本語の感覚を利用せずに、「英語みたいなもの」と思って法則で読むというのは、どこで教わったことなんですかねえ。困ったモンだ。
この人のやろうとしたことというのは、人間が自然に行っている「歩く」という動作を、全て理論化してそれに従って歩けるようになろうとするようなものです。つまり、歩けるロボットを作る方法論で自分を歩かせようとしているってこと。
難しいよ、ソレ。~o~;;
それで思い出したのですが、昔、ウチの古文の人気女性講師が、古文を「ハートで読む」と言い出したことがあります。
いやー、ハートじゃ読めないよなあ、と実は本人以外のみんなが思っていました。~o~;;
また、同じくウチの昔の大先生T師が、「本能で読め」とおっしゃっているのを聞いたことがあります。これは、多分、上記の「現代日本語の感覚を利用」というのと同じことをおっしゃったんだと思います。
しかし、言葉の感覚は生まれ持った物じゃないからなあ。
閑話休題。上記の生徒さんが、法則でもハートでも本能でもないもので、普通に読んでくれるようになると良いのですが…。
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