粗忽者としての惟光~『源氏物語』に関する些細なこと12
結局、接種二回目の副反応は、二日目午後になって微熱が出ただけでした。それも翌朝はすっかりド平熱。やっぱり年寄りは副反応出にくいってことかしらん。
さて、些細なことシリーズその12です。
「葵」の巻巻末近く、紫の上と新枕を交わした源氏の命令を受けた惟光が、用意した三日夜の餅を少納言の乳母の娘である弁に持って行かせようとする場面です。
「『たしかに御枕上に参らすべき物にはべる。あなかしこ、あだにな』と言へば、あやしと思へど、『あだなることはまだならはぬものを』とて取れば、『まことに、今はさる文字忌ませたまへよ。よもまじりはべらじ』と言ふ」
この部分を小学館『新編日本古典文学全集』は、次のように訳しています。
「まちがいなく御枕もとへさしあげねばならぬ祝儀のものですよ。ゆめゆめあだやおろそかにしてはなりませんぞ」と言うので、弁は解せぬことと思うけれども、『あだなことはまだ存じませんのに』と言って受け取ったところ、『いや本当に、今回はそういう言葉は慎んでくだされ。まさかそんな言葉は使いますまいな』と言う。
源氏と紫の上の新枕を祝う縁起物なのだから、いいかげんに扱わないようにと注意する惟光に対して、「あだなり」という言葉が”おろそか”の意味にも”浮気”という意味にもなることを利用して冗談を返す弁に対して、さらに惟光が新婚の祝い物に使うのは不吉な”浮気”の意味になる「あだなり」の語を避け、言忌みをうながすというやりとりなのですが、このやりとりは語法的にも内容的にも少し変です。
というのは、惟光の最後の言葉は、直訳すれば、”まさか混じっていないでしょう”という訳になるのであって、”まさか使いますまい”にはならないのです。加えて、「あだに」と最初に口に出したのは惟光の方なのです。
この部分は、古注釈の世界でも問題になっていて、『湖月抄』には、「抄聞書」として、
「さはあるまじけれどもと、弁に惟光が陳じていふ詞なり。また或る説に、よもまじり侍らじとは弁が惟光への返答なり。よもさやうの事は申し混ぜじといふ心なり。あだなる事はよも混じらじといふなり」
とあって、この言葉を弁から惟光への返事とする「或る説」を紹介しています。
これを受けて近現代の注釈書でも、島津久基さんの『源氏物語講話』は弁の返事説を取ります。
しかし、この弁の返事説には、致命的な問題があります。弁は、この時点で紫の上の新枕を知らないはずなのです。
それで近現代の諸注釈はおおむね『新全集』と同じ方向の意訳をして済ませようとします。岩波文庫は、さすがにこの意訳に気がひけたか、「けっして(そのような言葉が)まじってはなりません」と原文に近い形で訳していますが、この訳は、通常<打消意志>や<打消推量>になる助動詞「じ」を、大変珍しい<不適当>の意味で取らねばならず、やや文法的に苦しくなります。
そのように言いたいなら、「じ」ではなく、「まじ」でしょうかねえ。
ところが、『源氏物語大成』によれば、この部分を「まじ」とする異本はなく、全ての写本が「じ」です。
長くなるので、続きは明日。
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