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2021年8月 1日 (日)

患者が増えているワケ

 昨日から夕方の一講座だけの天国期間です。

 講習で扱っている文章で、ちょっと気になることがありました。

 実は、以前取り上げたことのある『土佐日記』一月七日の条。この時取り上げた部分の少し後です。

 貫之一行を訪ねて来た地元の歌自慢のハチャメチャな歌に対して、大人達は黙々と飲み食いして返歌をしないという仕打ちでこの男をいびり出すのですが、その空気を察することの出来ない子供が返歌をしようとする場面。

 「『立ちぬる人を待ちて詠まむ』とて求めけるを(『席を立ってしまった人を待って詠もう』「とて」捜したが)」

 この「とて」の部分を、ウチのテキストで「と言うので」と訳してあるので、ヤレヤレと思ってしまいました。

 「とて」は、引用を受ける格助詞「と」と接続助詞「て」が一語化したもので、会話文や心内語を受けて「と言って・と思って」の意味になるのが一般的です。原因理由の用法もありますが、このように明らかに会話文を受けている場合、「と言って」と訳すのが普通です。

 なんだってこんな基本的な誤訳を…と思ったら、どうやら現代の諸注釈がみんな「と言うので」なんですね。

 現代の諸注釈というのは、『土佐日記全注釈』(萩谷朴著 1967)、『小学館古典全集』(村松誠一注・訳 1973)、『講談社学術文庫』(品川和子注・訳 1983)、『小学館新編古典全集』(菊池靖彦注・訳 1995)のこと。(新潮社の『古典文学集成』と岩波書店の『新日本古典文学大系』はこの部分に対して全くノーコメントです)

 ここを「と言うので」と訳してしまうと、次の「捜したが」の主体を誤る原因になります。「と言うので捜したが」だと大人達が捜したように読めてしまいますが、ここは、返歌をしようとしている子供が捜しに行かなければならないはずです。だって、大人達は自分達でいびり出した男が、もうすでに帰ったことを知っているから。

 前回の時と同様、多分萩谷先生の『全注釈』が元凶なんだろうけど、こういう誤訳を生徒がマネすると、接続助詞「て」の感覚を利用できなくなり、「主語判らない病」を引き起こす原因になっちゃうので、困るんですよねー。

 生徒さんには、「『て』は『て』と訳せ!そうしないと主語判らない病にかかっちゃうゾ」と力説しておきました。

 子供が「主語判らない病」の患者になっちゃうのって、大人の側にも原因があるんだよなぁー。

 と思いつつ、校舎から出て駅まで歩く間に、反乱を起こした居酒屋さん風俗さんとそれに乗っかっちゃったゆるーい人達が、あっちにもこっちにも…。

 東京は昨日4000人超え、全国で一万の大台に乗ったそうですが、増えるワケだよ。

 こっちは誰が原因作ったんだか。~o~;;;

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コメント

とて(土佐日記一月七日)
なるほど、講師の読み方がふさわしいのかも。
古語辞典(旺文社)も「とて」[会話などを引用して下に続ける。・・・といって。・・・と思って。「『(護法が)さらにつかず。立ちぬ』とて、数珠とり返して」(枕・すさまじきもの)を①にしています。
古文研究法も語彙の二十九にとりあげていますが、「というので」となっています。
古典を楽しむために講師の日記は未だ読んでおります。

投稿: 侘助 | 2021年8月13日 (金) 17時23分

>侘助さん
 お久しぶりです。
未だ読んでくださっているとのことありがとうごさいます。

 いやしかし、『古文研究法』が「というので」とは灯台下暗しでした。確認いたしました。御指摘ありがとうごさいます。

 辞書類でも、原因理由の用法は掲げられているのですが、その際引かれている例文はいずれも会話文を受けたものではありません。中田祝夫編の『小学館 古語大辞典』の「とて」には、➀に「と言って」を挙げ、②として「引用の意味が軽くなって理由や動機・場合を表す」とありますので、やはり、会話文を直接受ける「とて」は、「と言って」がよかろうと思います。

投稿: mumyo | 2021年8月13日 (金) 18時01分

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