粗忽者としての惟光Ⅱ~『源氏物語』に関する些細なこと12
昨日の続きです。
近現代の諸注釈は、何となく座りの悪い訳だがこんなものという態度のように思われます。こんな時に頼りになる谷崎も、「よもや御前でお使いになりはしますまいが」と大同小異。
ワタシとしても、この部分に関して正解と確信できるものを思いつけずにいます。
しかし、一つ正解になりえるかもしれないアイデアがあります。目の付け所は、最初の惟光の会話文にあります。
惟光は、最初の言葉を「あなかしこ、あだにな」と言いさしています。もし、『新編古典文学全集』の訳のように「あだやおろそかにしてはなりませんぞ」と丁寧に言いたいのなら、「あなかしこ、あだにな」の後に「し給ひそ」あるいは、「もてなし給ひそ」くらいの語がなければなりません。
「あだに」は言忌みの対象となるNGワードです。これはもちろん、言霊の発動を危惧してのことですから、話者がどんな意味で使おうとダメです。また、当人達の前で言わなければ良いというものでもありません。したがって、”いいかげんに”のつもりで「あだに」と口に出した瞬間に、惟光は「シマッタ」と思っているはずです。
惟光という男は、「心とき者」と言われ、気の回る男ではありますが、同時にウッカリした失敗を起こす人でもあります。例えば、「夕顔」巻では夕顔の家の前を通りかかった頭中将を確認に行かず、「お前自身が見届ければよかったのに」と源氏に突っ込まれていますし、物の怪が出た時刻に某院から帰ってしまっていて、朝になって源氏から「憎し」などと思われています。
ここも、ウッカリNGワードを口にしてしまい、それにㇵッと気づいて口ごもったのではないでしょうか。
ところが、事情を知らない若女房弁から「あだなる」を”浮気”の意味にとりなした冗談を言われて、”そう、それなんだよ!”とばかりに、返した言葉が「まことに」だったのかもしれません。
”そうそう、ホントにその言葉を今はお避けになってくださいよ”と弁に注意を促した後の「よもまじりはべらじ」は…。
もしや、慌てて自分の失言を取り消す、”私の言葉にもまさか混じっていないでしょう”だったんじゃないかしらん。
これなら、現存する本文をそのまま訳して意味が通じます。しかし、粗忽者惟光が自分のウッカリから目を白黒させて若女房とやりとりする寸劇を、果たして読み取って良いものかどうか。
面白い読みだとは思うのですが、自信はありません。でも、あり得なくないんじゃないかしらん。
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