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2021年12月21日 (火)

些細なこと些細でないこと~『源氏物語』に関する些細なこと14

 今日は冬期講習の合間のお休みです。本当はスキー合宿の娘(仮称ケミ)を迎えに北海道に行く予定だったのですが、合宿がなくなっちゃったんでねえ。

 んで、『源氏』です。

 ウチの教材に使われている箇所で気になることがありました。「胡蝶」巻。36才の光源氏が養女玉鬘の美しさに惑乱し、玉鬘の手を取って思いを訴える場面です。

 「むつかしと思ひてうつぶしたまへるさま、いみじうなつかしう、手つきのつぶつぶと肥えたまへる、身なり肌つきのこまかにうつくしげなるに、なかなかなるもの思ひ添ふ心地したまうて、今日はすこし思ふこと聞こえ知らせたまひける。」

 この部分を小学館『新編日本古典文学全集』では次のように訳しています。

 「恐ろしいことになったと思って、うつぶしていらっしゃる女君の姿は、たいそうそそり立てるような魅力をたたえ、手つきはふくよかに肥えていらっしゃって、体つきや肌合いがきめこまかにかわいらしく見えるので、君は、かえって恋しい思いのつのる心地になられて、今日は少しご本心をお打ち明けになるのであった。」

 今、この訳文を打っていて初めて気付いたのですが、モノスゴイ訳ですねえ、「そそり立てるような魅力」デスよ。~o~

 この部分、旧古典全集は「たいそう魅力的で」と至って当たり障りのない訳ですから、この「そそり立て」ちゃったのは、『新編』から参加した故S先生の御意向ということになりそうなのですが…こんな過激な言葉を使う人だったかしらん。~o~;;;;

 閑話休題。この『新編』の訳のどこが「些細」なのかというと、「なかなかなるもの思ひ添ふ」の訳を「かえって恋しい思いのつのる」としてしまっている点です。

 形容動詞「なかなかなり」は、古語辞典では、「起点でも終点でもないどっちつかずの状態を表し、不十分不満足の意を含んで用いられる」もので、➀中途半端だ②かえってそうしないほうがましだ・なまじっかだなどと訳される語とされています(『ベネッセ古語辞典』)。

 つまり、「なかなかなる物思ひ」は、直訳的には、「中途半端な物思い・かえってそうしない方がましな物思い」ということになります。「なかなかなる」と連体形となって「物思い」を連体修飾しているのですから、当然です。

 これを文脈に当てはめて解釈するとこの一節は、母夕顔追慕を契機として養女玉鬘への思いを抑えがたくなった源氏が、女の手を取りその肉感的な美しさを目の当たりにして「かえってそうしないほうがまし」と感じられる物思いに取り付かれ、禁断の思慕の情を訴える、そのような場面なのです。

 この文脈の中での「かえってそうしないほうがまし」な物思いとは、女の肌に触れ女を間近に見ることによって、収まるどころか逆に湧き上がってきて理性を圧倒していく激しい情動と、一方では「見なければよかった」と自省する心の有り様なのでしょう。

 自ら被った「養父」という仮面と中年光源氏の体内に蠢く欲情の狭間で、自らを「どっちつかず」と捉えるから「なかなかなる」なのだし、理性と欲望の葛藤があるから「もの思ひ」なのでしょう。

 これを「かえって恋しい思いのつのる」と訳してしまっては、軽過ぎでぶち壊しです。

 これは「なかなかなる」という形容動詞を、「かえって」の意味の「なかなか」という副詞で訳してしまったための失敗です。「なかなかなる」を「物思ひ」に連体修飾させなければ、「どっちつかず」が出て来ません。

 手元にある注釈書は、この「なかなかなるもの思ひ添ふ」を、「見てはかえってもの思いの新たに加わる」(『玉上評釈』)「かえってもの思いがつのる」(『旧全集』)、「なまじ打ち明けたためにかえって物思いの増す」(『新潮集成』)「恋心を訴えてかえって物思いの募る」(『岩波文庫』)などと訳しています。

 まあ、『新編全集』の軽さに比べればマシかとも思いますが、「なかなかなる」を副詞「なかなか」の意味で処理してしまっているのは同じ。「どっちつかず」が出て来ません。

 思うに、諸注釈書をお書きの碩学達がこんな基本的なことをご存知ないわけはありません。ただ、注釈書の執筆は国文学系の学者さんが行うので、国語学的な拘束を軽視しがちなのでしょう。御自分が読み取った文脈と文法の間に何か矛盾が生じた場合、文脈を優先させるのは国文学者としてある意味自然なことなのでしょう。

 しかし、矛盾点で立ち止まり時間を掛けて問題を止揚させていかなければ、勝手読みの弊害は避けられません。

 そんな中、手元にある訳の中で唯一、「なかなかなる」を連体修飾させたのは…。

 またしても、あの文豪

 「いかにもお美しいのを御覧になりますにつけても、なまなかなおん物思いの増す」とはお見事でした。

 もはや、これは単なる文豪の勘ではないでしょう。学者でないために逆に文法に対して謙虚なのかもしれません。文法と文脈との間で真摯に葛藤し訳語を探すからこうなるんでしょう。適語を選ぶことに掛けては、彼はプロフェッショナル中のプロフェッショナルですものね。

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