薔薇か人かの衰退~『源氏物語』に関する些細なこと15
二月は予備校屋にとって仕事の少ないのんびりした季節ですが、我が家では娘(仮称ケミ)も、塾の年度が二月で変わる関係で今週は通塾がなく、少し落ち着いて生活できます。
こういう環境だとワタシも『源氏』に取り組みやすく、久々に「些細なこと」です。
「賢木」巻の巻末近く、政治的な窮状に置かれた源氏と頭中将が文事に憂さを晴らす中で、酔い乱れた源氏の美しさを階のもとの薔薇に例えた頭中将の和歌に源氏が返歌する場面です。
「『時ならでけさ咲く花は夏の雨にしをれにけらしにほふほどなく
おとろへにたるものを』と、うちさうどきて、らうがはしく聞こしめしなすを、咎め出でつつ強ひきこえたまふ」
新編日本古典文学全集では、ここをこのように訳しています。
「『時季にあわず今朝咲く花は、咲きにおう時もなく夏の雨でしおれてしまったらしい
このわたしもすっかり衰えてしまったのに』と、それでも陽気にふるまって、中将の歌を出まかせなことをとわざとひがんでおとりになるので、中将はそれを何度も咎めだてては、無理にお酒をおすすめ申される」
さらに新編全集は頭注で次のように述べます。
「下の『聞こしめす』の解が、酒を召し上がる、中将の言葉をお聞きになる、の大別ニ様に分れている。前者では下の『強ひきこえたまふ』と矛盾する。後者では源氏が中将の歌を『らうがはしく』聞く点に不自然さが残るが、一応後者に従っておく。中将の歌を真実『らうがはし』と受け止めたのではないが、中将の同情も含めて自己の衰退への詠嘆を意識的におし隠す気持ちであろう」
この頭注のいう「前者」というのは、『岷江入楚』などの古注の説で、『玉上琢彌 源氏物語評釈』は両説を取り上げながらもこちらの訳をしています。一方、他の現代の注釈書は管見に入る限り「後者」の説を取っています。
ちなみに、例の文豪は、どちらにも属さない「冗談口をおっしゃって、笑ってばかりおいでになります」という解釈をしています。うーーん、これは、谷崎先生、ちょっとオトボケですねえ。
閑話休題。玉上博士は、「前者」の訳をしながらも解説中で、「この場合、つぎの『とがめ出でつつしひきこえたまふ』に続きがわるい」と嘆いていますが、本当にこれは少し無理でしょう。すでに酒を飲んでいる人に対して、無理に酒を飲ませる必要はないでしょうから。
では、「後者」の解釈をした場合に何が問題なのでしょうか。『新編全集』は、中将の歌が源氏の容貌を薔薇の初花に喩えた称賛であるのに対して、源氏の歌を「右大臣方の権勢下での不遇な自分を、夏の雨にしおれている時季はずれの花と見なしての歌。中将の源氏賞賛を切り返して、勢力の衰えを詠嘆する」と解釈していて、自己の衰えを嘆きながら、頭中将の賞賛を「らうがはし(=乱れている・不作法だ・騒がしい)」と聞くというのでは少し無理があるというわけです。
この源氏の歌に関しては、他の注釈書も、「謙遜とともにわが衰退を嘆く(『岩波新日本古典文学大系』『岩波文庫』)」などとしています。『新潮社古典集成』は、この歌には特に謙遜や衰えを嘆くという説明を付しませんが、歌の直後の「おとろへにたるものを」の部分に、「いやいやすっかり駄目ですよ」と訳を付けているのを見ると、やはり歌自体も謙遜の歌と取っているのでしょう。
しかし、この歌は謙遜や嘆きの歌を取らねばならない歌なのでしょうか。
賞賛に対しては謙遜というのが形というものですが、謙遜と取って本文と矛盾するなら、型通りの解釈を止めれば良いというだけなのではないかしらん。
と気付いてみれば、上記の新編全集の訳も、全く謙遜には見えなくなります。頭中将が源氏を例えた薔薇に対して、「あの花、萎れてますよ」と言っただけなのです。とすれば、和歌直後の「おとろへにたるものを」も、「あなたのいうあの花は、衰えてしまっているのに(それを私に喩えるなんて)」と戯れの苦情を述べていると取れば良いのです。
すると、該当部分の『新編全集』の訳は、
「『時季にあわず今朝咲く花は、咲きにおう時もなく夏の雨でしおれてしまったらしい
あなたが喩えたあの花は、衰えてしまっているのに』と少しおどけて、中将の歌を不作法だとわざと曲解しておとりになるので、中将はそれを何度も咎めだてては、無理にお酒をおすすめ申される」
とすればスッキリします。
こういう冗談口の話には、どうも学者さん達、弱いなあと思っていました。やはり、昔書いたように、学者さんは紫式部のギャグセンスに全くついていけてないってことなのかしらん。~o~
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