花散里という名のあはれⅡ~『源氏物語』に関する些細なこと16
句読点の打ち方というのは、つまりこういう本文になるということです。
「御妹の三の君、内裏わたりにてはかなうほのめきたまひしなごりの、例の御心なれば、さすがに忘れもはてたまはず。わざとももてなしたまはぬに、人の、御心をのみ尽くしはてたまふべかめるをも、このごろ残ることなく思し乱るる世の、あはれのくさはひには思ひ出でたまふには、忍びがたくて、五月雨の空めづらしく晴れたる雲間に渡りたまふ」
まず、「さすがに忘れもはてたまはず」をの後を句点にして文を結びます。こうすることで、源氏のどっちつかずの中途半端な態度が女君の煩悶を生むという文脈が消えます。「人の」の後に読点を打って「人の」を主格と取りやすくし、「世の」の後に読点を打って、「心を尽くす」を「思いを寄せる」、「あはれ」を「情趣」などの意味に取ると、全体の訳文は、
「その妹君の三の君と、かつて宮中あたりでかりそめの逢瀬をかわすご縁があった後、君は例のご性分から、さすがにすっかり忘れておしまいにはならない。表立った扱いもなさらないのに、女君が、すっかり深い思いをお寄せになっているに違いないようであるご様子を、このごろ余すことなく思い乱れなさる世の中にあっての、情趣の種としてお思い出しになるにつけ、じっとしてはいられなくて、五月雨の空が珍しくも晴れた、雲の絶え間にお出かけになるのである」
こんな感じになります。
つまり、表立った扱いもしない源氏に対して健気に一途な思いを寄せて来る花散里を、私生活でも政治的にも苦境にある源氏が限られた情趣、風流生活の種として思い出し訪問すると読むわけです。
この解釈のポイントは、「思し乱るる世」と「あはれ」を切り離したことです。従来の解釈では、花散里との関係=「あはれ」は「思し乱るる世」の一つの例に過ぎなかったのですが、新解釈では「思し乱るる世」は「あはれ」と対比され、社会的状況から来る混沌と懊悩の意識中に、数少ない風流ごととして浮かび上がってくる存在が花散里訪問=「あはれ」なのだということになります。
さて、ここまでが「些細なこと」。ここから些細でない話です。
「花散里」巻は、確かに花散里との「あはれ」を描いていますが、物語の語り手は、花散里よりも女御邸訪問の途中の中川の女とのやりとりに力を注いでいるように見えます。
上記新解釈によって、「思し乱るる世」⇔「あはれ」(花散里)という対比が印象つげられたとすると、この女はどちら側なのでしょう。
この女は、源氏に対して「ねたうもあはれにも」思いながら、源氏を拒みますが、その理由は、「さもつつむべきこと(そのように憚らねばならないこと)」としか示されません。
また、花散里巻の巻末には、花散里と源氏の逢瀬を語って、「我も人も情をかはしつつ過ぐしたまふなりけり(互いに心通わせ続けてお過ごしになるのだった)」と、源氏との交情を続ける女性達の存在を示しつつも、「それをあいなしと思ふ人は、とにかくに変はるもことわりの世の性と思ひなしたまふ(そのことを「あいなし」と思う人は、あれこれと変わるのも道理の世の習いだと源氏の君はことさらに思い込んでいらっしゃる)」とあって、中川の女のような存在が源氏からの情交を「あいなし」と考えていることが示されています。
「あいなし」は多義語ですが、道理・常識などに照らして、筋が通らず、理屈に合わず、困った存在を指す意の語です。この語をどう解釈するかでこの巻全体の在り方が変わってくる気がします。
そもそもこの花散里巻では、解釈の鍵になる部分に多義的な表現がよく用いられます。前掲部分の「あはれ」もそうですが、「つつむべきこと」「あいなし」などはどのようにでも受け取れそうです。
だから、『岷江入楚』等の古注釈が指摘するように、この中川の女がすでに「ぬし定まる」女であって、その男性に対して憚って源氏からのを贈歌を「あいなし」(=不都合だ)と考えたと取ることもできます。
しかし、多義的表現であるために、いろごのみの風流貴公子であろうとする源氏が、物語の政治的状況の側の常識から外れる困った存在として「あいなし」とここで評されているのだという読みも決して間違っているとは言えません。
右大臣専横の世の中では、源氏と交情を持つこと自体が「つつむべきこと」であり、にも関わらずいろごのみを仕掛けてくる源氏は「あいなし」と感じさせる存在だというこです。中川の女は、源氏を拒絶し孤立させる世間の重苦しい空気感=「思し乱るる世」を代表する存在としてこの巻で取り上げられているのかもしれません。
どちらで読んでも間違えと言えないこの状況は、あるいは作者が故意に仕掛けたことなのかもしれません。「さもつつむべきこと」「あいなし」という多義的な表現のヴェールの向こうに何を読み取るかは、読者に委ねられている謎なのかもしれません。
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